2008年09月30日
あなたに抱かれてわたしは蝶になる

庭の紫式部。
ことごとく葉っぱ食われて枝寒し。
ぱっと見た感じではわかりにくい。
洗濯物を干していた妻が、
悲鳴らしき大きな声。
でっかい奴がおる、と。
急に枝の葉っぱが動いたと。
そのわりには、
平気な顔して、
懐かしい歌を歌ってくれる。
この青虫、
だれに抱かれて蝶になるのやら・・・。
♪ 恋は心もいのちもしばり
死んで行くのよ蝶々のままで ♪
蝶になった昔をなつかしんでいるのか、
妻もよく覚えているもんだ。
2008年09月29日
冷たき布団

「家に帰っても、冷たい布団に一人眠る女の気持ちが、
あんたなんかにわかるはずがないっ!」
居間を通ったら、
そこだけのせりふが聞こえてきた。
サスペンスドラマの終盤の場面らしい。
しばらく、
そのせりふが頭から離れない。
外は雨が落ちてきた。
冷たい雨が、
窓の透き通ったガラスに落ちてきた。
涙のような粒が、
ガラスにへばりついている。
もう少し強く降ると、
流れてしまいそうな水滴に、
遠い昔を懐かしむ。
もう少し思いやりがあれば、
もう少し信じあえれば、
道はまた違ったかも知れない。
あの時の、
彼女の頬を伝った涙のように、
ガラスのしずくがポロリと流れて落ちた。
ドラマの最後の挿入歌が、
よく似合う夜の雨。
庭の虫音もやんでいる。
2008年09月28日
生命線

弟の爪の形は父に似ていた。
僕のは母の爪の形をしていた。
それがどうしたというわけではないけれど、
小さい頃はみんないっしょだといいのに、
と思ったりした。
子供の頃、
家族みんなで本をみながら、
手相を見合ったことがある。
僕は生命線が長いから、
長生きすると言われた。
父は短かった。
その時はみんなこんなもの当たらないと思い、
笑いあっていたけれど、
僕は心のどこかで悲しく思っていた。
それから、
何十年もしてから父は家族の中で、
一番最初に天国に召された。
その時にはもう、
あの占いのことなど、
誰もまったく覚えていなかったのだけれど・・・。
2008年09月28日
実りの秋

天高く、馬肥ゆる秋。
検索してみると、本来はあまりいい意味ではないらしい。
毎年秋になると、肥えた馬に乗って、蒙古の略奪の襲来がやって来る。
中国北西部の農民の諺からきているらしい。
黒澤明「七人の侍」もそうだった。秋の収穫を狙って野盗がやってくる。
野盗だけではない。
「ちくしょう、何言ってやがんでえ、百姓ってえのはなあ、百姓ってえ奴らは・・・・・年がら年中、朝から晩まで心配ばっかりしてんだ、嵐がくるんじゃねえか、大雨になるんじゃねえか、干ばつにみまわれるんじゃねえか、凶作になるんじゃねえかって」
百姓の出を隠していた菊千代(三船敏郎)が、みんなに言い放つ。
実りの秋。
収穫の喜びを、
祈り続けてきた神に感謝し、
明日の命に祭りを興す。
のどかな秋の昼下がり。
たいした世話もしないのに、
庭の木々にも、実りの秋がある。
お百姓さんに怒られそうだ。
2008年09月27日
秋本番

「ううっ、さぶっ!」
毛布のなかで、
まる虫のようにちぢこまっていた。
なんだこの寒さは。
フローリングの床が冷たい。
毎年、
この時季はいつも後手に回される。
いつまでも夏の残影に惑わされ、
空が澄んで高くなっても、
道端に秋の草花が咲いても、
どこかでまだ疑いの眼差しを持っている。
風邪のひとつでもひいてから、
やっと掛け布団をひとつ増やそうとする。
あわてて、
タンスの中身も入れ替わる。
その頃には、もう前方に、
次の季節の背中が見えていたりする。
今年も、
もうあと残り三ヵ月。
早いもんだ。
2008年09月25日
笑かす

公園の噴水は、
決まった時間になると、水を噴き上げる。
この泉の広場では、
いろんな人々が休日の憩いを楽しんでいる。
今日は、
この泉のすぐ横で、
中学生が柔軟体操をしていた。
何かの部活なのだろう。
ふたり一組で、ひとりが座り、
もう一人が背中を押している。
「イチ、ニイ、サン、シー・・・」のかけ声。
中学生にはまだ幼さが残る。
微笑ましく眺めていた。
そこになんの前ぶれもなく突然に、
この噴水が目の前で噴き上がった。
「ウオォォーッ!」
中学生たちは驚きと共に、
大きな歓声を上げた。
そして、そのあとに、高らかな笑い。
いっせいに鳩は飛び立ち、
周囲の親子連れや、散歩の老夫婦も、
みんな噴水の方を見やった。
そんなに驚くことではないのだけれど、
この一瞬のあとから、
この公園の空気がなお一層なごんだような気がした。
中学生の笑い声のせいか、
おどろいた反動か。
まわりのみんなが笑っていた。
中学生の頃、
この噴水のような奴がいた。
普段からバカなことをするひょうきんな奴だった。
それが、
誰かが喧嘩して気まずい雰囲気になると、
突拍子もないことをしてみんなを笑かした。
悲しむようなことがあると、
さりげなくギャグを飛ばし、笑かした。
それはあいつでなければ似合わないことだった。
その「間」が絶妙だった。
あいつは、
自分が転校していく時も、
泣いている友だちを、笑かしてたなぁ・・・。
2008年09月24日
蜥 蜴

めっきりと涼しくなってきた。
聞くところによると、
もともと人は暑さに強いらしい。
生き物としてそういう風にできている。
発汗機能によって、暑いと皮膚の汗腺から、
大量の水分を出し、蒸発させることで体温を下げている。
近縁でも、
チンパンジーなどには、
こうした機能はないらしい。
ヒトのように炎天下を歩き回るということはない。
暑い時には、木陰で涼んでいる。
なるほど。
あやかりたいもんだ。
2008年09月23日
秋 分

秋をグリーンにのせて、第4打。
もらったとばかりに打つと、
ホールすれすれに秋はすり抜けて、
坂をころがり落ちて行く。
暑くなったり、寒くなったり、
なかなか秋もホールアウトしない。
平常心。
野球でもパチンコでも、
微妙な心の動きが指先に伝わる。
いい時ばかりは続かない。
わずかな心の油断や隙を狙って、
つけこんでくるものがある。
考えはじめると、ますます、
蟻地獄のようなバンカーに陥る。
人間の心理なんて微妙なもんだ。
かの大横綱、双葉山。
69連勝で負けた時、
「 いまだ木鶏たりえず 」
と言ったそうな。
ましてや凡人、
無心になることは至難の技である。
2008年09月22日
悲 鳴

「キャーッ!」
夜も更けて、
戸締りに出た玄関から、
妻の久しぶりの悲鳴。
貴女も悲鳴をあげるのですね。
酒飲んで、
うとうとしていた。
見にいくと、
小さなカエルが扉にへばりついていた。
ただのカエルじゃないの。
昼間、庭の草むしりをしているとよく見かける奴だ。
扉を閉めようとした時に、
手のひらに触ったのだと言う。
だったら、
悲鳴をあげたかったのはカエルのほうでは?
なぜ玄関の扉にへばりついているんだ。
どうした、どうした、
みんなが集まってきた。
夜の風が冷たい。
もうしばらくすると、
吐く息も白くなる。
みんな息を合わすかのように、
夜の空を見上げてから、また家に入る。
もう冬眠するしかない蛙を外に残して、
扉に錠の音。
湯割りのおかわり。
秋分前夜。
2008年09月22日
豪 雨

ゲリラ豪雨も、
この頃は、少し慣れてきた。
天気予報も、予報というわりには正確なところがある。
局地予報のあと、
雷とともに激しく雨が落ちてくる。
軒先で雷の音を聞きながら、
雨の降る風景を見やる。
めったにないけれど、
稲妻の光の軌跡を目にすると、
そのエネルギーの莫大さに畏怖の念を覚える。
虫の鳴く静かな森もいいけれど、
ときには風雨に荒れ狂う木々の風景も、
エネルギッシュな大自然の一面を見るようで、
たからかに胸の鼓動をはやくする。
稲光のあとに、
少し遅れてやってくる雷鳴を、
息を詰めながら待つ瞬間が好きである。
フランケンの映画を思い出す。
2008年09月20日
空の日

公園のベンチに腰掛け、
歳時記を繰っていたら、
今日は空の日だと。
思わず空を見上げる。
人間はこの大空を飛べるんだよなあ。
便利になった反面、
その技術は今では地球をも滅ぼしかねない脅威となっている。
せいぜい鳥のように、両腕をはばたかせて飛べるくらいだったら、
まだ楽しいのになあ。
空の日に、目の前の地面に空の字を書いてみる。
落ちている枯れ枝で、地面に字を書くと、
子供の頃の遊びを思い出す。
あの頃は、陣地取りや、ケンケンや、石蹴りなど、
地面に円や線を引いて遊ぶことが多かった。
やかんに入れた水で、
当時はやってたミイラ男の姿を地面に描いた。
それが夕方で、日が暮れて街灯の灯に照らされると、
妙にリアルで、今にも生きかえってきそうで、
弟と怖がったことを覚えている。
今ではそんなことをしている子供の姿は見かけない。
テレビの前でゲーム機を持って、振ったり打ったり、バランスとったり、
擬似体験のゲームがはやっている。
そっちの方がよっぽど末恐ろしい気がするのだが・・・。
2008年09月20日
起こされて

「 プゥゥゥ~ン 」
少し高域の天使のささやき。
パチン、と額の蚊をたたく。
それで目が覚めてしまった。
外はまだうす暗い。
寝ていても音だけで腕が反射的に動く。
蚊取り線香や蚊帳のなかった、
原野に住んでいた頃の、
遠い祖先の遺伝子が、
そうさせるのかも知れない。
しばらくごろりとしていたが、
二度と寝付けなくなり、
仕方なく起き出して新聞を取りに出た。
見上げると、どんよりとした雲。
その雲の下に、張り巡らされた電線。
ぞっとした。
昨日、今日できたものではない。
前からあったのに、どうして気付かなかったのだろう。
思えばこの世の中、いろんな物にしばられている。
便利になる代償に、抜き差しならぬがんじがらめの社会。
なんだかみんなカミソリの刃の上を、
一列に並んで歩いているような気がする。
大空の線描画は、
そんなぼんやりとした不安感を描いている。
私たちは未来へどんな遺伝子を残すのだろう。
このblog も、
この頭上の線たちに支えられている・・・のかも。
2008年09月19日
親みょうり

山の神が倒れた。
病院に行くことはめったにないけれど、
子供が小さい頃は、よく救急病院に駆け込んだ。
夜中に高熱が出て、病院に電話すると、
症状を電話口で詳しくきいて、できれば病院には連れてこないでほしいようなくちぶり。
そのうち子供は目を白黒させて吐き出した。
それでは連れてきて下さいとの返事。仕方なさそうに。
病院に着くと、小児科はこれまた大勢の患者が廊下の椅子に並んでいた。
同じような子供たちがあちこちでぐったりとして、咳き込んだりしていた。
どうもないものまで病気になりそうな雰囲気。
やっと我が子に順番がまわってきた。
「 ただの風邪です 」 若い当直の医者はぶっきらぼうに言った。
これくらいで連れて来るなと言いたげな。
かわりに年配の看護婦は、その若い先生に気を使いながらも、
やさしく声をかけてくれた。
当直の医者も仮眠の暇もないのだろう。
疲れ切った表情をしていた。
昨今の小児科の医者不足も分かるような気がする。
来る前の電話口の受付の応対も、のみこめたような気がした。
その娘も元気に育った。
いつまでも子供じゃなかった。
2008年09月18日
釣りと運動会の空

この日の池の隣の小学校は運動会。
朝から大音響が鳴り響く。太鼓やピストルの音。子供たちの歓声。
昔はひとつのお祭りだったよなあ。
暑い中、例年よりテントの数を増やしたとのこと、
時間によって日影が移動する。
テントからはみでてもいいので、
影に入るようにとの、先生たちの気使い。
池にも多数の釣り人。
釣れる人、釣れない人・・・どっちでもいい人。
隣人はよくしゃべる人。
僕は、あまりしゃべりたくない人。
このよくしゃべる人、いつもよく釣るのだが、
どういう訳か今日は調子が悪い。
まわりはどんどんあげている。
愚痴をこぼしながら、イライラした気分。
竿の振りが荒くなる。
釣れない時には、いろんなせいにする。
場所が悪い、竿が短い、暑すぎる、しまいには運動会の太鼓の音。
まわりも気を使い、下手なことは言えないのだが、
当の本人の口数は増すばかり。
「おっちゃん、ま、こんな日もあるよ」
うしろの運動会は、これから昼休みとのこと。
ゴザを敷いて、親戚中が集まって、
重箱のご馳走を食べた昔を思い出しながら、
今日は竿を置くことにした。
病気した時の、玉子掛けごはん。
運動会の玉子焼き。
卵は、ごちそうだった。
2008年09月18日
うしろ髪

うしろ髪引かれる思いで、
まだ夏の名残りが夕暮れの空にある。
釣瓶落ち、とは言うけれど、
この頃は井戸も珍しくなった。
夕暮れの西の空をじっと見ていると、
海に沈む船のように、
初めから一気には沈まない。
地平線の裾野までゆっくりと赤く染めたかと思うと、
おもむろに一気呵成に沈没し、
小さな舳先を最後に空の向こうに消えてゆく。
今日はまたことさらに名残り惜しいと見えて、
雲が水墨のように髪を引く。
秋がその気になってきた。
2008年09月17日
月下美人

昨夜の七時、
まだ咲きかけのつぼみだった。
夜九時、満開に。
ずっとついて見ていたら、
スローモーションで開花がみられたかも・・・と思うほど速い。
去年の今頃は三つ咲いた。
今年は合計九つ咲いた。
やっぱり満月の夜。
数が多い分、匂いがすさまじい。
玄関に置いているので、
外から帰ってきた娘が一言、
「臭っ!」
臭いはねぇだろう、と思うのだが、
香りと、表現するには少々グロテスク過ぎる。
花言葉は儚い恋。
一夜限りの恋の執念の匂いが、
寝静まる空気の中に漂う。
そんなことにはおかまいなしに、
娘たちがテレビのアイドルにキャーキャー言っている。
撮り終わって、玄関の照明を落とす。
窓のうすあかり。
月がまた雲間から顔を出したようだ。
月下美人がウィンクして私を誘う。
2008年09月16日
毛 虫

桜の木陰の下で、
新聞を読むのを眺めていた毛虫。
桜の葉を食んでも、
蛾にしかなれない君たち。
夜の蝶と言えば聞こえはいいけれど、
どんなにがんばったって桜の花にはなれない。
でもそんなことは、
あんたには関係のないことで、
今はただたらふく腹ごしらえをするだけだ。
顕微鏡で覗かなければわからない遺伝子に、
気の遠くなるような昔から、
今しなければならないことがプログラムされている。
でもひょっとして、
今の境遇から抜け出せるのではないかと、
夢見ることもあるのではないか。
だから、
君たちは夜の闇の、
灯りに群れる習性があるのではないか。
桜の木の下で、
いくら新聞読んだって、
俺たちも桜の花にはなれない。
蛾は蛾、
人は人、俺は俺、桜は桜。
それにしかなれない。
それが、いいじゃないか。
2008年09月15日
2008年09月15日
告 白

おいでおいで、
すすきが誰かを呼んでいる。
毎年、毎年季節はくり返すけれど、
秋は一番もの悲しい季節のような気がする。
「旅愁」という言葉のなんと、うら寂しく人恋しい響きか。
ちょっと道を譲ってくれた人、
ATMで困っていると助けてくれた人、
強面の人が実はほんとに優しかったりする。
世知辛い世の中に、
人の温もりはスプーン一杯だけで嬉しくなれる。
すすきが呼んでいるのではなく、
本当は、人が人を呼んでいるのかも知れない。
恋しい胸の内を告白する時は、
少し乱暴に早口になる。
裏にまだいたのか、
つくつく法師の鳴く声に似て。
2008年09月14日
秋日向

街中の並木などは、
ほとんど落葉樹が植えられているという。
夏には日射しをさえぎり、木陰を作る。
冬には葉を落とし、暖かい日光を通す。
公園の落葉樹の木の下で、
イスに腰掛け新聞を読んでいると、眠くなる。
遠くでゲートボールを楽しむ声が、
やわらかい風にのって、
耳に届いたり届かなかったりする。
電車に揺られ眠りかけた時のように、
体をびくっとして目を覚ますと、
膝の上の新聞は地面に落ち、
木の葉の影が広がった紙面にも落ちていた。
新聞を拾い上げ、
影の揺れる文字をながめていると、
催眠術にかかったように、また眠くなる。
次に目覚めた時には、
すっかり枝葉が落ちているような気がする。
あるいは、
もう二度と目覚めないかも・・・。
うつろな秋日向の淵で。
2008年09月14日
おびただしい秋

小さな川の土手は、
草の緑で覆われていて、
よく見ると人の顔にも見えてくる。
その対岸は桜並木が整備されている。
その木陰にイスを置き、
新聞を広げていると、
その上にちっちゃな黒い小粒の、
仁丹のようなものが落ちてくる。
上を見上げるがよくわからない。
しばらくするとまた、カサッと落ちてくる。
小粒でも新聞紙に当たると気になる音になる。
まるでトトロの真っ黒くろすけだな、と思い立ち上がる。
よく見ると、
夥しい数の毛虫が、あちこちにいる。
一葉を奪い合うかのごとく、
びっしりとはびこっている。
ぞっとして思わずその場を後にする。
向かいの草の人面の口から、
これまた夥しい雀の群れが飛び出していった。
次の季節に追い立てられるように、
秋があわただしく過ぎ去っていく。
2008年09月14日
肉 体

時々、
不思議に思うことがある。
手のひらを前にして、
親指動けと命令すると親指が動く。
次は中指、同じく動く。
くすり指、ちょっと単独では動かしにくいけれど、
忠実に命令に従おうとする。
当たり前のことだけど、
当たり前のことが当たり前にできない人たちが、
北京で活躍している。
かの選手たちは肉体の限界に挑んでいるのではない。
それは五体満足の者たちが勝手に思っていることであり、
肉体の限界に挑む者たちのオリンピックは先に終わった。
彼らは精神の限界に挑んでいる。
よく行く釣り池に、
片腕のない人が釣りに来る。
初めて会ったときは失礼ながら、
魚を釣っても、どうやって玉網に取り込むのだろうと、
心配半分、興味半分で見ていた。
そういう自分が哀れなくらい、
彼はりっぱな両足と、工夫して作られた治具で、
いとも簡単に魚を取り込んだ。
そういう方に限って、性格の明るい人が多い。
教わることもまた多い。
科学の進歩だけが、
霊長類のとりえではない。
写真の天空に突き上げた拳は、
人間のすばらしさを謳っている。
2008年09月13日
記念樹は林となりて

母校の文化祭を何十年ぶりかで見に行った。
校庭のまわりに植えられた卒業の記念樹。
見事に育っていた。
私は文化祭よりも、
しばしその木をじっと見上げていた。
今までの人生の長さに比ぶれば、
ほんのわずかの三年間であったけれど、
胸に残る比重は、
何よりも重い。
数々の思い出が、
空の雲の、
うろこの数だけ流れゆく。
秋の午後。
2008年09月12日
甘藷畑

田舎にいた子供の頃、
我が家の畑にはからいもが一面に植えられていた。
そして秋のはじめ、その芋を掘り収穫が始まる。
唐芋の茎から白い汁が出て、それをさわると手が黒くなった。
面白がってわざと手に付けて遊んだ。
そして大人たちが一生懸命に収穫作業にあたっているなか、
子どもたちは収穫した芋を入れる段袋に入って遊び、
じゃましてはよく怒られていた。
掘り返された畑の土は、
子供の目には小高い丘に見えた。
やがて学校に行くようになり、
家に帰ると、
かまどの大きな釜にある芋を手につかんでは遊びにとびだした。
食うものはなくても唐芋だけはいつも食べていた。
約四百年前に琉球に伝わって、
いく時代もの人の空腹を満たしてきたさつまいも。
自分もそのひとりなのかも知れない。
2008年09月11日
皿までも

私たちの結婚式の披露宴に、
いとこの子供がいた。
まだ学校にあがった頃で、
デザートのメロンを食べる姿がビデオに残っている。
うまそうにメロンの皮までもかじりそうな勢いで食べていた。
その様子がアップで映されていて、
実家でそのビデオを見たときは、嘆くいとこに反して、
父と母は喜んでいた。
それっきり、
そのビデオを見ることはなくなったけれど、
妙にそのシーンが彼を思い出させた。
先日、
その彼が我が家に遊びに来た。
近く結婚するとのこと。
食事のあと、もらいものの梨を出した。
皮を剝き、爪楊枝さして出すような間柄ではない。
彼は梨にまるごとかぶりつくと、
うまそうに、芯までなくなりそうな勢いで食べた。
それを見て、
妻も私も笑っていた。
彼は覚えていないかも知れないけれど、
あのビデオのメロンから今の梨まで、
もう100年も経ったような気がする。
でもまだ彼が嫁をもらう年数しか経っていない。
その間に、
私の父も妻の父もいなくなった。
当のビデオテープは今も、
押入れの奥で眠っている。
そのうちビデオデッキがなくなるかもしれないのに・・・。
2008年09月11日
木肌匂ふ

路地裏に、
どこからともなく木のいい匂い。
ついひと月前までは草ぼうぼうの廃家だった。
近頃は家の建つのもはやい。
木肌の匂いにつられて迷い込むと、
ちょうど一仕事終わったのか、
家主が職人さんに酒をふるまっていた。
湯上りの女のうなじのような木がいくつも立ち並び、
ほんのりと匂う酒のにおいに赤く染まりそう。
廃家の頃は哀れさがあったが、
今は新しき未来の華やかさがある。
ずっと止まっていた時間がまた動き出す。
新しい歴史が始まる。
2008年09月10日
食べ頃

知り合いの農園の片隅にあるトマト。
食って下さいとばかりに赤くなり、
秋空の青さに冴え渡る。
もいでしまうのがもったいないような、
ひとかぶりするのが待ちきれないような。
好きなだけ持ってけと言う。
好きなだけ、
畑ごと持って帰りたい気分である。
山里の秋。
2008年09月09日
立ち止まれば

写真俳句始めてから、
徒歩や自転車で出歩くことが多くなった。
その中で気付くことがある。
家のまわりに花を植えている家が非常に多い。
一戸建ての家からは、
なにがしかの花が首を出している。
マンションのベランダからも、
季節ごとの花々がカラフルにハンギングされている。
公団住宅の一階のベランダの下の狭い空間には、
花に混じってネギも植えられている。
そんな風景を見ると、
ああ人間はやっぱり根っから土や植物に、
愛着を持っているんだなあ・・・と思う。
今まで車で通り過ぎていた風景を、
歩いて見てみると、意外な発見をする時がある。
たとえばこの小さな三角公園。
いつ見ても誰もいない。
税金の無駄遣いとまではいかないけれど、
必要なのかとまで思っていた。
それが、
これも最近気付いたことだけれど、
早朝、たまたま散歩にここを通ったら、
ご高齢の人たちが集まって、
ラジオ体操をしていた。
またある朝には、犬を連れた人たちがしばし、
ここで休憩をとっていた。
りっぱな憩いの場になっていた。
自分だけの生活パターンで、
すべてを判断してはならない。
もっとゆっくり歩いて、あるいは立ち止まって、
よく見ることだ。
句作にも通じる。
2008年09月07日
草の声

目前で鳴いている虫の居場所がわからない。
草むらにしばらくしゃがみこんでじっと耳を澄ます。
この場合、目はあまり役に立たない。
一瞬、細き草の葉が揺れる。
この場合は、
獲物を捕らえる獣の目が役に立つ。
小さな土蛙。
お前ではない。
鳴き声はすぐ目の前なのに、
その姿を見出せない。
なんでもかんでも明らかにしなければ気のすまない科学の時代に、
知らず知らず脳みそは探究色に染められている。
虫の音の正体を確かめることに夢中になり、
あるがままに風情を感じる心を忘れちまっている。
俳句など愉しむ資格などない。
2008年09月07日
女 心

食欲の秋。
信用と体重は反比例する(?)。
信用は失うのはあっという間だが、
取り戻すには大変な労力を要する。
昨今の偽装事件をみるまでもない。
体重は増やすのは簡単だが、
減らすのには一苦労する。
夏はまだ汗をかく。
冬は食ったら食った分だけ体重が増えそうな気がする。
そして増えたらしばらく減りそうにない。
娘たちが小さい頃は、
「 いつまでだっこできるかなあ・・・ 」
と言いながら抱っこして、
「 おお、だいぶ重くなってきたなぁ 」
と娘の成長を喜んだものだ。
そのうち、
脇の下の手をくすぐったいと言うようになり、
やがて、娘たちの成長の証しは、
僕の腕から、体重計へと移っていった。
年頃には、
重の字がタブーとなり、
そんなに肥えてもいないのに、
ダイエットだ、ダイエットだと言われると、
親としてはなんだか淋しく思う。
2008年09月06日
古墳塚

子供の頃、
今の時季になると裏山に、
ひよどりの罠を作りに行った。
地面に小さな輪の囲いを作り、
その中に南天の実や熟した山柿を入れる。
生えている細い木をたわませて、
紐を使って入口の棒にひよどりが止まると、
首が挟まれるようにする。
ねずみ捕りのような仕掛けを作る。
木の陰に隠れていると、ひよどりが降りてきた。
罠の餌に気付いて近づいていく。
この頃は、まだ蚊が飛んでいて、
かまれた腕の蚊を、
無意識にパシッとたたいた。
その音で、
ひよどりは飛んで逃げた。
家の近くに古墳塚がある。
人影のない石段を歩いていると、
蚊に腕をかまれた。
思わず手で打つと、
後ろで鳥の飛び立つ音がした。
数十年も前の、
あの時のひよどりがよみがえってきた。
2008年09月06日
避雷針

近年、
雷鳴をこんなに聞くことも珍しい。
落雷の被害もあちこちで耳にする。
この頃は、
うかつに釣りにも行けない。
最近の釣竿はほとんどカーボンロッドになっている。(竹竿は高価)
少々の雨や雪ならどうってことないけれど、
雷が鳴り出すと、みな納竿となる。
町中を見渡すと、
あちこちに避雷針が設置されている。
ある高さ以上に、設置義務があるのだろう。
落雷した時のバイパスの意味もあるけれど、
落雷自体をも起きにくくしているらしい。
そんなことにはおかまいなしに、
バリバリと空を引き裂く音がして、
大量の雨と共に、各地を席巻してまわる。
今日もゲリラ豪雨の恐れありと、
暗雲立ち込める空の下のアンテナに、
予報士の声が飛んでくる。
雷様のおしりに針が刺さったのか、
えらくお怒りになっている。
できるなら、その声も聞いてみたい。
2008年09月03日
少年野球

死、殺、刺、挟、犠。
殺伐とした漢字が並ぶ。
日本では野球は国民的スポーツになっている。
高校生のようなアマチュアの競技で、
甲子園のようなスタンドをいっぱいにできるスポーツは、
世界でも類を見ないと聞く。
日曜日。
小さな広場で少年たちが野球の練習をしていた。
声変わり前の甲高い声が青い空に響いていた。
これらの子供たちが日本の野球の隆盛の、
底辺を支えているのだろう。
ではその子供たちを支えているのは誰だろう。
写真の右端に写っている、
彼らのお母さんたちである。
休みの日の食事の手配、お茶の準備、監督やコーチらの世話。
それだけではない。野球には他のスポーツより、
多くの用具がいる。
バット、グローブ、ヘルメット、スパイク、ユニホーム・・・。
経済的にも多くの負担がかかる。
子供だけでなく家族も野球漬けになる。
野球は知れば知るほど、面白いスポーツだ。
けれども、
野球がサッカーのように、
世界的に普及しない理由もわかるような気がする。
五輪の正式競技から外されるのもわかるのである。
「なんでこんなことまで私らがせなあかんの?」
お母さんらがこころの中でつぶやく。
でもそれらをかき消すものは、
子供たちの夢である。
真剣に走って、打って、白球を追う少年たちの姿に、
日曜日の朝も早くから起き出していけるのだと思う。
そして、
そこまで野球漬けになり、犠牲にしてきたもの、
練習に明け暮れてきた成果が、
試合の結果にでてきたとき、
全てが報われるのかも知れない。
昔、巨人の星というアニメドラマがあった。
伴宙太や花形満の恵まれた家庭よりも、
星飛雄馬や左門豊作の境遇に、
人々は共感をもった。
彼らの家族もまた野球漬けだった。
そういう人々や家族が野球界を支えている。
少し哀しい気もするのだが・・・。
2008年09月02日
天王山

猿酒がこの山にあるのかどうか知らない。
あれば面白いと思っただけのことである。
淀川をサイクリングする時は、
必ずこの地でひと休みする。
秀吉と光秀が川をはさんで陣取ったこの地に、
床几を・・・いや折りたたみの小さいイスを置き、
軍配を・・・いや扇子で顔を扇ぎながら、
兵どもの夢の跡を、ひとり思うのである。
今では手頃なハイキングコースになっているこの山の、
標高はそんなに高くない。
右に向かえば京の都。
国破れて山河あり。
昔のままに山は動かず、
河は今でも京の方角から流れ来る。
秀吉が腰にとっくりぶら下げて、
光秀に会いにきているような気がする。
だから、
天王という名の山のどこかに、
猿酒があるような気がするのである。

















