2008年10月31日
冬 隣

時の経つのが早い。
今年もあと残り三ヵ月と書いてから、
もう、ひと月経った。
時の流れは、
その人の生きるであろう人生の長さを、
その時の年齢で割った値に比例して感じるらしい。
一日の長さでも、
子供は長く感じるし、
年寄りは非常に短く感じる。
個人的には特に盆から正月が早い。
十月を過ぎた辺りから、急に流れがはやくなる。
押し流される落葉のように、
風流気分でいると、
またたく間に小じわの二、三本は増える。
秋から冬にかけて、
いっぺんに年を取るような気がする。
知らず知らず、
玉手箱を開けているのだろう。
2008年10月30日
冬の足音

カサカサと鳴くのは、
虫ではなく、通り過ぎる秋の足音。
落葉の似あう季節になってきた。
その落葉も、
アスファルトの上じゃかわいそうだ。
土に帰れる場所でないと・・・。
でも、
この頃は土も公園なんかに行かないとお目にかかれない。
今の子供たちは土の匂いって知ってるのだろうか?
土にはやわらかさや温もりがあって、
いくつもの穀物を産み出す母親のような力がある。
落葉の公園の散歩道。
はっぱふみふみ人が通る。
カサカサと、
冬の足音も近づいてくる。
2008年10月29日
情 け

情けは人のためならず。
情けをかけておけば、
やがてまわりめぐって自分にいいことが返ってくる。
この頃は、
情けをかけるとその人のためにならないととる人がいるらしい。
あまり甘やかし過ぎるとよくないと、
とっているのかも知れない。
甘やかすのは情けではないと思うのだけれど・・・。
あちこちで心寒くなる事件があいついでいる。
身体はオーバーでも着込めば温もるけれど、
冷えた心を温めるカイロなどない。
心を温めるものは、
ちょっとした人の親切と優しさと思いやり。
まわりめぐって自分に返ってくる。
今は、情けがあってもまわりめぐらないから返ってこない。
返ってこないものをあてにしない淋しい世の中になっちまったか。
おふくろの煮しめ芋。
昔から、父も僕も弟も妹も、
みんな無償の笑顔を返していた。
2008年10月28日
片想い

今度会ったら、
ぜったいこう言おう、ああ言おうと思ってきたけれど、
相手の顔を見たとたん言葉は風にとんでいって、
一言も発せず。
片想いの上の娘。
少し元気がない。
恋患う年ごろとなりて、
親もまた思春期の頃を懐かしむ。
来年は卒業だ。
卒業という言葉の響きが、
なおさら乙女心をせつなくさせるらしい。
その割にはよくしゃべるこの娘。
元気のないふりをして、
なんでもかんでも話して、
勝手に自分で顔を赤くして、
相手の前でそんだけしゃべったら?
といじわるを言ってやる。
血液型O型のせいか、
そんなん言えたら苦労せんと、
ひとごとのように言う。
かわいい。
親はすでに思秋期となりて、
なんの力にもならねども、
ただ、あなたの性格だけは、
うらやましい。
2008年10月26日
秋惜しむ日曜日

うす暗き部屋に、
時計の音が静かに鳴り響く、
雨の降る日曜日。
家の者は、
それぞれの用事でみな出かけて行った。
玄関のチャイムが鳴る。
自治会の回覧板が来る。
「寒くなりましたねぇ」
ひと通りのあいさつをして、
空を見上げる。
真っ黒の雲から細い雨が、
上品に落ちてくる。
ゲリラのような野蛮な降りではない。
秋を惜しむような雨の音。
そういえば、
なんだかこの頃は月を見るのも、
避けているような気がする。
部屋に戻る。
電話が鳴る。
年賀状の印刷のセールス。
私の耳に、
秋の終わりの決定打を放つ。
2008年10月26日
糸瓜棚

「60年前、映画館でショールを拾ったことが、
一人の女性との縁の始まりでした・・・」
昨日の新聞の投稿記事に、85歳の男性の方が書いておられた。
時に、偶然は不思議な運命を伴なってあらわれる。
♪ あの日あの時あの場所で君に会えなかったら
僕等はいつまでも見知らぬ二人のまま ♪
小田和正
偶然ほど、糸を赤く染めるものはない。
60年の間には、
数えきれないほどの、泣き笑いがあったのだろう。
数年前にそのショールを落とした女性を亡くし、
これからは夫婦だけでのんびり暮らそうと思っていた矢先であったと、
書いておられた。
人の偶然に、己の偶然を思い出す。
大事に感謝することを思い出させてくれる記事であった。
2008年10月25日
紅く萌え

庭の片隅にひときわ紅いかたまりがある。
寄り集まった赤い実を、
ひよどりたちがついばみにやってくる。
上空からこの色は目立つにちがいない。
(鳥は色がわかるんだったっけ)
この小さな庭にも季節ごとに、
色々な生き物たちがやってくる。
とんぼ、みつばち、すずめ、めじろ、カエル、ミミズ、
バッタ、セミ、蜘蛛、蝶、蟻、まる虫、等々。
季節のなかでも、
これからの冬は一番生き物たちの少ない時期。
そんな中に残る、
このピラカンサは墨絵のなかに一点、
朱の色をかもし出す。
心の臓を流れる鮮血のように、
胸をドキドキさせる。
2008年10月25日
秋の村雨

今朝の雨あがり。
なんだか久しぶりに日射しを見た。
すぐ近くの川の土手道を自転車で走る。
山に向かいなだらかな坂道。
山のてっぺんにはまだ雲がかかっている。
麓で折り返し、帰りは下り坂。
自転車はこがずにすいすい進む。
少し前までは、
この川には水が僅かにしかなく、
川底の石ころをさらけだしていた。
足をペダルに載せたまま、自転車は、
両側に壁のような背の高い草の生い茂る、
土手の細い道を抜けて行く。
抜け切った時に、急に、
川の水の音が一際高く聞こえてきた。
この前まではここにも水はなく、
滝にはなっていなかった。
落ちてゆく水のしぶきが、
幼稚園児の歓声のように、
あたりにこだましていた。
ぴんぴんと、たのしそうに・・・。
自転車と競争するように、
川の水はまっすぐに流れて行く。
さらさらと、うれしそうに・・・。
2008年10月24日
秋の蝶

ふらふらと、
この季節の飛び方をする黄蝶。
一点に止まるとしばらく動かない。
今はあまりむやみに、
動かない方がいいのかも知れない。
じっと耐える時なのかも知れない。
不景気の波が押し寄せてくる。
ふらふらと、
秋風に流されるより、
越冬もするという黄蝶のように、
したたかさを一点に集中して、
羽を休める時、なのかも知れない。
2008年10月24日
背中からやってくる幸せ

まだ暗いうちに池に着く。
車のライトを消し釣り座に向かう。
白い絵の具を混ぜるように夜が明けていく。
小鳥のさえずりがきこえ、遠くで鶏の声もする。
池の水面でポチャンとへらのもじる音がする。
向こう岸にも誰かが入る。
言葉を交わすわけではないけれど、
この朝の空気を同じく共有する。
そのうちに山の頂から朝日が顔を出す。
夕日の美しさはないけれど、
朝日は生きる活力を与えてくれる。
山影がゆっくりと退き、
陽射しが背中に当たる頃、
ジ~ンとした幸せがうしろからやって来る。
かたわらの草地にはコンビニの空弁当やペットボトルが放ってある。
これらが腐って草花の堆肥になるには、
気の遠くなるような時間が要る。
その前に池は埋め立てられ、あるいは日干しにされ、
背中で幸せを感じることはもうなくなってしまうだろう。
水面でもじる生き物たちは、
この地球のこの水面下でしか生きられない。
自然は遠くにばかりあるのではない。
2008年10月23日
父の手

田舎の親戚から今年も新米が届いた。
30キロ袋入り。担ぐと、
作った人の重みがずしっと肩にかかる。
お米ってこんなに重たかったかなぁ。
そういえば、昔、
お前の手はお父さんそっくりやなぁ、
と親戚のおじさんに言われたことがある。
ゴツゴツとして大きい。
学校の頃はクラスで一番大きかった。
その父の手にはひとつの特技があった。
こぶしを握るようにして指の関節をポキポキポキと鳴らす。
それぞれの指ごとに音が違う。
子供の頃、
夜、寝るときに指を鳴らしてくれた。
僕は手の中に何か持っていると思い、
それちょうだいと、父の手の指を一本ずつ広げた。
中にはなんにもなくて、父は笑っていた。
そんな父の手が僕は大好きだった。
盆と正月に出稼ぎから帰ってきた父が、
僕の頭を撫でてくれた手。
腕相撲に両手でかかってもかなわなかった手。
いつの頃からか、
僕の手の指も父と同じように、鳴るようになった。
それから何十年もして、
父は病院のベッドに横たわる人となり、
耳元で呼びかけてもなんの反応もなくなった。
手を握るとわずかに握り返してきた反応も、
末期の頃になるとそれもなくなった。
息を引き取る前の日、
力なく空をつかむ父の手の指を、
僕は一本ずつ広げてみた。
あれだけ大きかった父の手は、
もう関節に皮が張り付いているだけだった。
子供の頃には、
なんにも出てこなかった手の中から、
熱いものが洪水のように溢れ出てきた。
いつもポキポキポキと、
新聞を読みながら鳴らしていた父の手。
今でも、僕の両腕の先にある。
2008年10月22日
2008年10月22日
撮影会

草むらから突然人が出てくる。
何気なく草中をのぞくと、
人がしゃがみ込んでカメラを構えている。
こんな所から人が出てくるとは思わないし、
そんな所に人がいるとも思わないからびっくりする。
秋晴れの午後。
自転車を走らせていると、
そんな団体さんによく出くわす。
何かの撮影会らしい。
大きなレンズの付いたカメラを三脚にのせて、
立止まっては進み、進んでは止まる。
僕はUターンしてそういう人たちの後にまわり、
自転車にまたがったまま、
こっそりとそういう人たちを写真に撮る。
おもしろい。
すると後の方で、カシャッとシャッター音。
さてはそういう自分を撮る奴がいたかと、
ふり向いたけれど、
残念ながら被写体は僕ではなかった。
三脚の上のカメラをのぞき、
木の枝の小鳥をねらうおじさんがいた。
この辺りでは、
木の葉も草花も鳥も林も、
みんなポーズをとっているような気がする。
ハイ、チーズ!
2008年10月21日
2008年10月20日
ある月あかりのうれしい夜に

朝晩は冷え込むようになってきた。
自転車で風切る頬が少し寒さに赤味がかる。
駅からの、遅い夜の道には人影もなく、
月明かりに路地の垣根が、
白黒模様に浮かび上がっている。
下り坂に自転車の灯火は明るさを増す。
せっかくの月明かりだ。
ほんとはいけないことだけど、
思いっきり自転車こいで、
灯火を消してみる。
月明かりの中に、
リンと鈴を鳴らすと、
自転車は浮き上がり、夜空に舞い上がりそうになる。
指と指をつないで、E.Tになったような気分だ。
突然、
目の前を猫がしゅーっと横切っていった。
急ブレーキ。
自転車は電柱にぶつかり、
僕は月明かりの道にでんぐり返る。
あたりを見渡すと誰も見ていない。
よかったと思い上を見ると、
月がひとりで笑っていた。
ある、
仕事がうまくいった日の、
少しほろ酔いの帰り道。
腰をさすりさすり自転車と歩く月路かな。
2008年10月19日
2008年10月18日
食欲の秋

この頃、娘が、
ごはんのおかわりをするようになった。
中学生や高校生のころは食って当たり前。
食わなきゃ、どっか具合でも悪いのかと思う。
俺たちの頃は、
配達するお米屋さんに恥ずかしいくらいだったと、
母は今でも思い出したように言う。
「なんで? お米屋さんに喜ばれるならまだしも、
何も恥ずかしいことないじゃない」と反論する。
実際、食い盛りの頃は本当に腹も減った。
家に帰って母の晩飯の支度が待ち切れず、
炊けたてのごはんだけでも先に食べた。
子供にひもじい思いはさせたくない。
我々の世代の親の最低限の思いだろう。
この頃は、
「ひもじい」という言葉さえ死語になりつつある。
世界食糧難の時代。
魚焼く匂いをおかずに、
飯を食う時代が来ないとも限らない。
2008年10月16日
あのころ

この風景を見ると、
もう秋以外の何物でもない。
小学校の帰り道は、まともな道を外れて、
こういう田んぼの中をわざと歩いて通った。
記憶が定かではないのだけれど、
我が家にも足踏み式の脱穀機があり、
母が稲束を横の父に渡し、父が脱穀する。
ふたり並んだ姿がおぼろげに浮かぶ。
僕がそんな小さい頃のことだから、
父と母も若かったのだろう。
ふたり並んで、
姉さんかぶりの下でどんな話をしたのだろう。
きっと他愛もない話なのだろうけれど、
セピア色の記憶の中の、
ふたりの背中に安心して、
僕は遊んでいたのだろう。
仏壇の父の写真に、
この頃似てきたと、
母が言う。
2008年10月16日
めたぼ月

おどろいた。
きれいな満月の夜。
我のよな凡人はすぐに写真を撮りたがる。
庭に降りて、三脚を立て、
カメラを夜空に向けてファインダーを覗く。
満月をアップにしてシャッターを押そうとすると、
月の頭に黒い線。
「なんじゃこりゃ?」
すぐに電線だとわかった。
アップにしたまま、そのままでその電線がはずれる分だけ、
少し前の方に移動した。今度こそ、
満月のアップだけになり、シャッターを押そうとすると、
また電線が上からゆっくりと垂れ下がってくる。
「この電線どうして垂れてくるの?」
夜の空を見上げて、月の光のまぶしさで見えにくい電線をさがす。
当然ながら電線が下がっているのではない。
月が電線を通り過ぎているだけのことだ。
おどろいたのはそのスピードの速いこと。
徹夜明けのまぶたのように、
ゆっくりと上から降りてくる。
満月が目に見える速さで動いている。
シャッターを押すのも忘れて、
何回も電線の降りるのを見る。
今さら何を、と言われるかも知れないけれど、
こんなに感動したのは何年ぶりだろう。
俳句も解説するようじゃ・・・と言われるかも知れないけれど、
blog名通りで、いいではないか。
2008年10月15日
裏山は危険がいっぱい

裏山のきのこ食べた男性嘔吐・・・。
裏山でクマに襲われ・・・。
裏山に入りスズメバチに刺され死亡・・・。
秋も深まるこの時期、
こういう新聞記事の見出しが目につく。
子供の頃、
裏山にはいろんなものがあった。
柿や梨や栗やみかんの木、
釣竿にする竹、めじろを捕るとりもちの木。
バナナの木。
夏にはクワガタやカブトムシ。
そして木の上やほら穴に作った秘密基地。
昔の裏山には夢がいっぱいあった。
今も昔のままに柿はなるけれど、
なんのせいか、
この頃の裏山には危険がいっぱいある。
2008年10月13日
秋風靡

もうこの池で、
三十年も釣りをしている人がいる。
最近は腰を痛めて長くは座っていないけれど、
池の土手の草を刈ったり、
ゴミを拾ったりしている。
総じて年寄りの釣人が多い中で、
子供たちがくると、
すぐに竿を置いて彼らの世話をする。
釣り方を教えたり、釣りの小道具をあげたり、
ゴミは持って帰りやと、やんわりと釣りのマナーを、
教えたりする。
昔、
この池で子供が落ちて亡くなるという事故があった。
この人は他の場所で釣りをしていたのだけれど、
同じ池にいて、助けてやれんかったと、
いつもくちぐせのように言う。
知り合って十年近くなる。
今年、古希を迎えるというその笑った顔は、
あの頃と変わらないけれど、
ほとんど釣座にいることはなくなった。
池の世話をしに来ているとみんなは言う。
僕には、
亡くなった子供を弔っているようにも見えるのだが・・・。
2008年10月12日
魔 性

美しさには魔性が棲む。
百万本のバラの花にも、
その分のトゲがある。
秋の庭のばらには、
泣き崩れたる気強い女の哀れさがある。
香もなく、葉もなく、やっと咲いた一輪にも、
かつての品ある面影はなし。
でも、
僕はそんなバラの木が一番好きである。
こころの棘を全部さらけ出し、
着飾る緑葉はなくても、
気高く突っ張るプライドだけは忘れない。
それが貴女の生き方なら・・・。
今ならその鋭い棘を避けて、
そっとあなたを抱くことができる。
枝葉が茂り、
棘も隠れる頃になると、
もはや貴女に手出しはできなくなる。
遠くから眺めるだけになる。
貴女は、
美しい魔性の棲む花になる。
2008年10月12日
十三夜

いくどとなく
長い夜がやってきて
また僕はこの椅子に座り
こみあげてくる三十七度の汚物を
じっとこらえねばならない
ちょうど船酔いした時のように
しかし 揺れるものは何もない
暗い部屋の重心に置かれた思考が
少しずつバランスを崩して
千鳥足で歩きはじめる
そして ふいに立ち止まると
感傷ではないまっ黒な記憶が
洗面器の中に一度に吐き出されてくる
何を食ったのか
細く長い糸状のものが
縺れたままで浮かんでいる
僕はその舌ざわりを
思い出そうとしている
2008年10月11日
まるくなる

釣りをするものにとって、
どんどん日が短くなる季節はなんだか淋しい。
今日は山の中の池。
人もまばら。
風がないので、
水面が鏡のように秋の空を映している。
水面に映る真っ白な雲の辺りに餌を落とす。
そこから同心円に小さく波紋が広がり、
その波の消えかかる頃、
ウキがゆっくりと立ち上がる。
今日のタナは深い。
何度か打ち返しているうちに、
打ち始めよりウキのなじみが遅くなった。
へらの気配を感じる。
目はまばたきをやめ、ウキを見つめて魚と会話する。
頭は水中をゆっくりと落下する餌をイメージする。
その重さがウキに伝わり、
ジワ、ジワッとムクトップがなじんでいく。
竿尻を持つ手が静止する。
ウキが水面にかくれようかとする時、
それは一瞬のうちに雲間に消し込んだ。
青い空も、白い雲もめちゃくちゃにして、
大きなへらぶなが糸を鳴らして上がってきた。
静かな山あいに、水しぶきの音がこだまする。
竿を満月にして、玉網に取り込む。
口の針をはずして、また池にリリースする。
池の水面も、山の空気もまたふり出しにもどる。
打ち返すたび、水面の波紋のように、
こころがまるくなる。
まわりの雑木林には栗の木が多い。
ここでとげとげしいのは栗の実くらいで、
あとは柔らかな日射しを浴びて、
静かに自然が鎮座している。
その栗の実でさえ、まるくなっている。
2008年10月11日
着信音

娘からの着信音は「赤とんぼ」にしている。
子供の頃の田んぼの畦道や野道には今の時期、
赤とんぼがそれこそ群舞していた。
小さな妹に、
とんぼをとってやるととても喜んだ。
日が暮れてきて帰ろうとしても、
なかなか帰ろうとしない。
とんぼを追いかけるのに夢中になり、手こずらせた。
妹の小さな腕を引っ張った何度目かに、
突然、妹が大きな声で泣き出した。
腕が痛いと言う。
あわてて家に帰り母に見せた。
母はすぐに骨接ぎ院に連れて行った。
帰ってくると、
妹はもうケロッとしていて、
ポケットから死んだとんぼを出して見せた。
腕の骨が抜けたらしい、と母は言った。
心配して待っていた僕は、
母に怒られると思ったけれど、
逆に妹の方が言われた。
お兄ちゃんの言うこと、きかんから・・・と。
僕は少しうれしかったけれど、
それからは、
妹の手を引くのがこわくなった。
携帯に、
赤とんぼの着信音。
そのメロディーがうれしいだけであって、
けっして娘からの電話がうれしいのではないのでありまして・・・。
まるでゴミ収集車やね、と妻に言われても、
変える気はないのでありまして・・・。
2008年10月10日
行き交う人もまた柳なり

このところの世間は元気がない。
世界的にも金融不安が広がり、
なかなか景気のいい話も勃発しない。
街ゆく人も、通勤の電車の中も、
大きな揺れに踏ん張れずによろめく人が多くなった、ような気がする。
重苦しい空気に包まれている、ような気がする。
柳のように皆肩を落とし、何かを考えている、不安そうに。
でも、
柳は強い。
柳に雪折れなし。
心を柔軟にし、柳に風と受け流し、
いつまでも柳の下にどじょうはいないけれど、
柳腰でがんばろう!
ん、柳腰?、
これは女性の細くしなやかな腰つきのことであった。
それもまたいいけれど・・・。
2008年10月09日
鼻の曲り角

どんなに目のくらむ美人でも、
きつ過ぎる香水には鼻が曲がる。
今の時季、
街角のあちこちで金木犀の匂いがする。
今まで目立たなかったものが、
一躍注目を浴びる。
この写俳でもたくさんの人が取り上げている。
でも、
僕はあまりこの花が好きではない。
この花の匂いには、
いい思い出がない。
それを思い出させるこの花が、
毎年町中にこれでもかとばかりに、
咲き誇るのが気に入らない。
花には、香、匂、臭。
人それぞれの、
鼻の曲り角がある。
2008年10月08日
鍵穴の影

深夜の帰宅。
玄関灯の球が切れている。
いつも点いているものがないと、
手元が暗いばかりでなく、
待ち人のない家に帰ってきた気分になる。
昨日の記事に、
きゃおりさんからいただいたコメントのように、
自分の家でも、真っ暗な家に入るのは、
少々ドキドキする。
扉の鍵穴に月明かり。
これ幸いと、
鍵を差し込もうとすると、
自分の影がはいり邪魔をする。
そのうち、
中から鍵が開けられ、妻が顔を出す。
長年連れ添った顔が眠たそう。
それでも、
人の待つ家はやっぱりいい。
部屋の空気が、
おかえり、と言ってくれている。
2008年10月07日
ある夕げどき

夕げどき、
子供たちが遊んでいる。
ごはんよー、誰かがお母さんに呼ばれて一人帰り、
またふたり帰り、最後にひとり残る子供がいる。
テレビや昔話なんかでそういう場面が出てくる。
親のない子であったり、
早く帰っても誰もいない家の子だったりする。
うちの家も共働きで、
母も帰りが遅い日があった。
そんな日はよく最後まで残って遊んだけれど、
別に淋しかったと思うようなことはなかった。
日が暮れても一人で遊んでいることがよくあった。
秋の公園の夕間暮れ。
子供たちが帰ったばかりのぶらんこは、
まだ何かを惜しむよに揺れていて、
それを見ると、センチメンタルにもの寂しく思う。
よっぽど今の方が、
心がやわになったような気がする。
2008年10月06日
窓の灯

悩み多かりし若き頃は、
よく繁華街にくりだした。
人波に埋もれていると、
俺だけではないんだと、
みんな何がしか、生きているんだと。
安心させられたもんだ。
そして、この群衆の中の一人でもいなくなると、
大事件になるんだと。
親がいて、妻がいて、子供がいるかも知れない。
いま肩越しにすれ違った人も、
誰かのためにここで消えるわけにはいかない。
でもこの頃の事件は、
世の中に背を向けて消えたい者が多過ぎる。
それも罪なき人を道連れにして、
だれでもよかった症候群。
勝手に一人で消えればいいものを、
ある日突然遺族となった人たちのことを思うと、
とてつもなく、やりきれない。
時々、
遠く高層住宅の夜の窓を見る。
深夜でもぽつんぽつんと灯のともる窓がある。
ひとつひとつの窓あかりには、
それぞれにかけがえのない暮らしがある。
ふたつとない生活がある。
みんながんばってるんだなぁ・・・と思う。
2008年10月05日
のちのころもがへ

別の記事で、
四季のある幸せを書いたことがある。
ハワイのように、
年中常夏ならストーブはいらない。
極地に扇風機はいらない。
四季がなければ、
着替えの衣類ももっと少なくて済む。
時の流れももっと穏やかに感じられるかも知れない。
四季がなければもっと効率的で便利になるかも知れない。
それでもなお、
日本人は春夏秋冬に愛着を持って生きてきた。
時の移ろいを衣食住の中に根深く浸透させ、
独特の文化を花ひらかせてきた。
春には春の、夏には夏の、秋には秋の、冬には冬の、
よろこびを感性に込めて慈しんでいる。
俳句もまた然り。
2008年10月04日
ひっつきむし

小学校の帰り、
門のところで女の子を待ち伏せ。
川遊びがしたいと言うので、
友だちと三人で小川で魚取りをした。
気に入りの女の子だったので楽しかった。
その後、
別れて帰り道。
友だちと石蹴りをしながら家路についた。
蹴った石が道の中央にいき、
それを追っていったところに、
後ろからバイクがきた。急ブレーキの音と共に、
僕は思いっきり地面にたたきつけられた。
そのまま気を失い、気がついたら病院のベッドにいた。
横には母が座っていた。
たいしたケガではなかったけれど、
しばらく頭がもうろうとして、
なぜここにいるのかと思った。
頭に包帯を巻いて母といっしょに家に帰った。
家に帰ってズボンを脱ぐと、
膝のところはドロが付いてすりきれていた。
そして、
裾の所にひっつきむしが張りついていた。
女の子と川遊びしたことを思い出した。
次の日、
学校で、みんなの前で先生に怒られた。
道草をするからこういうことになるのだと言われた。
でも、
それからも、
ズボンの裾に、
ひっつきむしがなくなることはなかった。
2008年10月04日
ピラカンサ

庭のピラカンサが色づき始めた。
そのうち、
庭の一隅で、燃えるような紅き色となる。
そばに寄って写真に切り取った一枚の絵は、
どこかで見たような風景。
幼稚園の先生に群がる園児たちのように、
ぺちゃくちゃと、目と口があっちむいてほいほい。
子供が幼稚園の頃は、
毎朝、幼稚園バスまで送って仕事に出た。
ある朝、カバン、水筒、上履き入れ、
小さい体に荷物をいっぱい持って、歩いていると、
突然、何かにつまずいて前に倒れた。
「 ほねがおれたぁ」 と言って泣き出した。
どこで覚えたのか知らないけれど、
それくらいで骨が折れるかいと、抱き起こした。
すぐに泣きやんだのだけれど、
バスが来て、先生が降りて来て、
涙ぐんだ目をみて、どうしたのかと聞いた。
そこでこけたと言ったのだけれど、
先生の目は、あきらかに、
どうも私が泣かしたのではないか、というような、
疑いの目をしていた。
なぜだか今でもわからない。
まだ青さの残る、
ピラカンサの実に、
あの頃を懐かしみながら、
その心当たりをさがしている。
2008年10月03日
釣りと見送りの朝

この日は、
娘の修学旅行。
三泊四日、北海道の旅。
早朝、家族みんなで駅まで見送りに行く。
日曜日の朝は人も少なく、まだ暗い。
昼間ならまだいいけれど、夜明け前とはいえ、
寒くて暗い朝の見送りは、なんとなくもの哀しさが漂う。
同じように見送りに来た人がいる。
一旦、家に帰ってから、そのまま釣りに出かけた。
池の近くに神社がある。
いつもその横を素通りなのだが、
今朝は車を降りて参道を通り鳥居をくぐった。
お賽銭を入れて、娘の無事を祈る。
参道の砂利の音が、早朝の空気に心地よい。
秋晴れ。
日射しをあったかく感じる季節となった。
池には、一時ほど釣れなくなったせいか、人も少ない。
今日は知った人もいない。
のんびりと竿を出す。
両グルでいく。なじみ際のあたりでよくあがった。
30枚目をあげた昼前、娘よりメールがきた。
今、北海道に着いたとのこと。
今朝、見送った娘がもう北海道にいる。
なんだか、
狐につままれたような不思議な気持ち。
神社の狐くん、
君が無事届けてくれたか?
2008年10月01日
事 件

赤い羽根の共同募金スタート。
小さな女の子を連れた親子。
胸に同じ赤い羽根を付けて、
手をつないで歩いて来る。
事件。
一度はつないだであろうその手で、
生きる道を絶たれるために、
その子はこの世に生まれてきたのではない。
やりきれない事件が多い。
主のいなくなったクモの巣のように、
きずながうすくなってきたのだろうか。
「 おなかすいた 」
「 はよ、かえろ 」
さっきの赤い羽根の親子。
すれちがいざま、小耳にはさむ。
きずなはクモの糸のように、
いくら細くなってもいい。
切ってはならない。
赤い羽根、
またの名を愛の羽根。









