2008年04月30日
俳句の里松山 10
千秋寺の句碑

山本や 寺ハ黄檗 杉ハ秋 子規
絵をかきし 僧今あらず 寺の秋 子規
子規が、愛松、碌堂(極堂)、梅屋の3名の松風会会員と
御幸寺山の麓まで散策した時の句。

金色の 仏の世界 梅雨の燈も 村上杏史
杏史の傘寿を祝って、昭和61年5月25日お孫さんの手で除幕式があり、
俳人達大勢の祝福を受けました。
本名清、明治40年、温泉郡中島町生。

伊佐爾波の丘めぐる水にこだましてあかつきいで湯太鼓鳴りいづ
弘田(義定)
道後温泉三層の本館屋上に「振鷺閣」があり、そこで毎朝6時半に
開場を知らせる太鼓が鳴りひびく、そこで松山らしさを感じての歌。

千秋寺は,貞亨3年松山藩主松平定直により建立されました、
現在の本堂は、祥えあ60年に再建されました。
2008年04月28日
俳句の里松山 9
護国神社の句碑
明治32年招魂社として創建されました。
数度の戦役、事変などにおいて尊い犠牲となって殉ぜられた方々など、
49,000柱を奏斎しています。

ちはやふる護国の宮の裏山に若葉のはざま風ぞ吹きける

熱田津爾船乗世武登月待者潮毛加奈比沼今者許芸乞菜 (額田王)
「熱田津に船乗りせむと月待てば潮もかないぬ今は漕ぎ出でな」
斎明(女帝)は、朝鮮の百済をすくい新羅を討つため船を進める途中
661年1月14日道後温泉を仮の宮と定め、その後、近くの港(熱田津)から
九州に向って船出する時に,側にいた額田王が詠んだ歌。
女帝自身の歌との説もあるそうです。
こでまりの 花の向こうの 白さかな
2008年04月26日
俳句の里松山 8
八幡造りの社殿伊佐爾波神社
135段の石段を登ると社殿がそびえ立っています。
社殿は、1667年第3代松山藩主松平定長によって作られ、
京都の石清水八幡.大分の宇佐八幡と並ぶ、
荘重な八幡造りの社殿を完成しました。


伊佐爾波の宮に向いて天伝ふ朝日に浮かぶ瀬戸の島々

伊狭庭の 湯はしもさはに 梅咲けり (加倉井)秋を
句中の「伊狭庭の湯はしもさはに」の語句は、万葉集の巻三の山部赤人の
「伊予の温泉に至りて作る歌一首」の語句を大胆に取り込んでいます。
この句は、昭和51年(1976)春松山に来た時の句。

伊佐爾波の 宮に優しき 椿咲く
2008年04月25日
俳句の里松山 7
道後公園
明治時代以来からの長い歴史を有する県立都市公園であり、
中世の時代伊予国の守護であった河野氏が本拠地としていた
湯築城跡でもあります。

温泉をむすぶ 誓いも同じ岩清水 (芭蕉)
明治26年頃、道後町が道後に遊園地作りました。
そのとき丁度、芭蕉の200回忌に当たったのでこの碑を建てたそうです。
この句は、芭蕉が元禄2年(16899下野国那須温泉で詠んだものです。

寝ころんで 蝶泊まらせる 外湯かな (小林 一茶)
寛政7年(1795)俳人小林一茶は、その師二六庵竹阿の旅の跡を慕い、
松山の俳人栗田樗堂らを訪ねて松山に来ました。
その旅日記(寛政7年紀行)によれば、同年2月1日のところに
「道後温泉の辺りにて」と前書きしてこの句があります。

ふゆ枯れや 鏡にうつる 雲の影 (子規)
明治28年子規「雲百句」の一句で、子規が余戸の俳人
森円月(1870~1055)のために、「愚陀仏庵」で
花き与えた物で、子規の自筆を拡大。
半鐘と 並んで高き 冬木哉 (漱石)
明治29年1月3日午後子規庵で、鳴雪、鴎外、瓢亭、漱石、虚子、可全、
碧梧桐と主催(子規)の8人が会しての初句会での漱石の句です。

茜さす道後の山の句碑めぐり躑躅と共に見るぞ楽しき
2008年04月24日
俳句の里松山 6
子規記念博物館の句碑
正岡子規の世界をと通してより多くの人々に松山や
文学について親しみ理解を深めていただくために
開設された文学系の博物館です。

子規記念博物館

春や昔 十五万石の 城下哉 (子規)
昭和24年4月JR松山駅前に、松山観光協会が設立。
その後松山市駅前、松山市営球場前に移転、平成11年3月
子規記念博物館に落ち着いたものです。
碑石は、正宗寺境内にあった自然石で、子規の句碑では、
最も小さいと思われます。

足なへの病ゆとふ伊予の湯に
飛びても行かな鷺にあらませば 子規
「もし私が鷺だったら、飛んで帰り、足の病を治したいのに」という、
病床の子規の望郷の歌です。明治28年松山愚陀仏庵からの途中の、
10月22日大阪で結核菌のため、左の腰骨が痛み出し、
以後没年までの間、殆ど病床の人となり「足なへ」の状態でした。

木や花の ざわめき聞こえ 風光る
2008年04月23日
俳句の里松山 5
道後温泉近くの句碑
道後温泉は、白鷺が発見したと言う白鷺伝説があります、
昔、足を痛めた一羽の白鷺が、谷間の岩間から湧き出ている
温泉を見つけ、毎日その温泉に足を浸している内に
傷が癒えて、勇ましく飛び立ったと言われています。

道後温泉駅

伊豫の湯汀にたてる霊の石
これぞ神代のしるし成ける 古歌
玉の石の由来は「伊予風土記」逸文に見られますが、
玉の石を歌った、この古歌は、伊予と中央の俳壇を結ぶ
最古の書「白水郎子紀行岡西惟中1639~1711」に見えるそうです。

春風や ふね伊豫に寄りて 道後の湯 柳原 極堂
明治30年(1897)4月3日土曜日松風会例会の席題吟
「名所詠こよみ」の句
子規にも推賞された極堂の代表句。

2008年04月20日
俳句の里松山 4
東雲神社の句碑
祭神は、天照皇大神,豊受大神、天穂日命、菅原道真公,息長福玉命などです。
文政6年(1823)松平松山藩11代藩主定通が藩祖である久松定勝の神霊を招請し、
息長福玉命と称えて祀ったのが始まりです。

東雲神社本殿

東雲の ほがらほがらと 初櫻 内藤 鳴雪
市指定の天然記念物、東雲櫻を詠ったもの、
参道の左にある今の「東雲櫻」は2代目、
山櫻系の花でソメイヨシノより早く咲くそうです。

遠山に 日の当たりたる 枯野哉 高浜 虚子
明治33年(1900)11月25日虚子庵例会での作。(子規病状悪化のため、子規庵での句例会は、
明治33年10月14日で中止)
虚子の最も好む代表的な句です。

参道のつつじが綺麗に咲いていました。
東雲の大神在す御社に 静心なく吾は参いらむ
2008年04月19日
俳句の里松山 3
毘沙門坂と東雲公園の句碑
松山城の鬼門(東北)に当たるところから、城の鎮めとして毘沙門天が祀ってあった。
毘沙門天は別名多聞天といい、帝釈天に仕える四天王の一人であり、七福神の一人としても
知られています。
東雲公園は、近くの公園で草田男主宰の俳誌「萬緑」の会員が建立したもので格別の謂れは無い様
です。

牛行くや 毘沙門坂の 秋の暮れ
明治28年(1895)子規が友人3人と散策の途中、生憎の雨のため御幸寺山の麓から
引き返してくる往復の途上に詠んだ句の一つです。

現在の毘沙門坂

夕桜 城の石崖 裾濃なる
草田男は、自分の句碑建立には消極的でした、県内にはこの句のほかに、松山北高校中島分校の
正門入り口右に、この自筆の句があります。
一度訪ひ 二度訪ふ波や キリギリス

八重桜が満開でした。
2008年04月18日
天山神社
松山市に天山と言う所があります。そこに天山神社と申す小さな社があり、
ここにこの様な言い伝えがあります。
8世紀前半に編集されたという地誌「伊予国風土記」(いよのくにのふどき)逸文に、
「伊与の郡。郡家より東北のかなたに天山あり。天山と名づくる由は,倭(やまと)に
天の香具山あり。天より天降りし時に,二つに分かれて,片端は倭の国に天降り、
片端はこの土(くに)に天降りき。よりて天山といふ、、本(このもと)なり。
その御影を敬礼ひて、久米寺に奉れり」と書かれている。
この天山の周辺には少丘陵が点在していて、皿ケ峰を背景にして眺める景色は、
奈良県の大和三山に似ているともいわれています。
そして、天香山神社と天山神社の交流が続いています。



天山の神知らし召す神域に 春告げ鳥の声ぞ聞こゆる
天山に 鶯の声 鳴きわたる
2008年04月15日
松山の空海縁の地 その7



接待に 足音軽き 遍路杖
第50番札所繁多寺
名称 東山 繁多寺
宗派 真言宗 豊山派
本尊 薬師如来
浄土寺から2,4㌔約35分
天平勝宝年間(749~757)孝謙天皇の勅願により行基菩薩が開創され、
3尺の薬師如来像を刻んで本尊とされました。
弘法大師が、弘仁年間(810~824)この地にしばらく止まられ、堂塔を整えて、
東山繁多寺と号し、第50番霊場と定められました。
その後、河野頼義によって再建され。
弘安2年には、後宇多天皇の、蒙古来襲退散、祈願の勅命を奉じて下向した
聞月上人がこの寺で祈願したと伝えられます。
訪れた日は、日曜日で、地元の人たちが、お茶、お菓子、タオルなどのお接待を
されていました。
ありがたいことです。
2008年04月14日
松山の空海縁の地 その6



浄土寺の 櫻の向こうに 読経の声
第49番札所 浄土寺
名称 西林山 浄土寺
宗派 真言宗 豊山派
本尊 釈迦如来
48番西林寺より3,3キロ
天平年間(729~747)恵明上人によって開基。
御本尊の釈迦如来は行基の作。
孝明天皇の祈願所であった頃の寺域は8丁四方に及んだとされますが、
その後荒廃し、文明13年(1481)河野通宣によって再興。
現在の本堂は、国の重要文化財に指定。
空也上人が修行した「空也谷」が近くにあり、
境内には空也松があります。
2008年04月12日
命の水
白鷺の 湖に願おう 命の水
瀬戸内海性気候といわれる瀬戸内は古よりさ製塩業が栄えたように、
降水量の少ない土地柄で、特に四国側は、山々も浅く、川も少なく自然の貯水能力に、
劣ります。したがって、先人達も水の苦労は多く弘法大師などの水の伝説も多くあります。
現代に至っても、水不足は慢性的で取水制限、減圧などが発生、過去には断水等
最悪の状態にもなりました。
わが町を支える、石手川ダム湖、またの名を「白鷺湖」(上空から見た形が、白鷺が羽を
広げた形と、下流の道後温泉の白鷺伝説から名付けられました。)も、
貯水量が少なくん毎年綱渡り状態です。抜本的対策の妙案は無く、市民の節水生活は、
当分続くでしょう。



白鷺湖の俯瞰図
2008年04月10日
松山の空海縁の地 その5
四十八番札所 清滝山西林寺
おへんろや 土手より低き 本堂へ


八坂寺より4,6キロ約1時間10分。
西林寺は、聖武天皇の勅願により,天平13年に、行基が開基したと伝えられています、
本堂に蔵される、ご本尊十一面観世音は秘仏であり後ろ向きに置かれているとの事で、
本道の裏側に廻って、お参りする参詣者も多いそうです。
また、内川の土手より低いところに本堂があることから、罪ある者が門を越えると
無間地獄に落ちると遍路は呼び,関所寺といつています。
近くに、大師の遺跡と言われる「丈の淵」、そして松山の天然記念物の
「ていれぎ」があります。

2008年04月09日
松山の空海縁の地 その4
別格九番札所文殊院得盛寺(衛門三郎屋敷跡)
哀れかな 衛門三郎 悔いの旅


遍路の元祖と言われる、伊予の国の土豪衛門三郎、
ある日托鉢に来た僧(弘法大師)を、追い返すために僧の持った鉢を叩き割る。
その直後から、子供達が、次々と亡くなる、自分の非を痛感した彼は、
大師に、許しを請うために四国巡礼の旅に出る。
四国を20回廻っても大師に会えず。21回目に逆巡りで歩き、十二番焼山寺で、
漸く大師と対面できた。許しを請うた衛門三郎は、その場で力尽きるのだが、
「今度は、国の領主として、人のために尽くしたい。」と言う、彼の願いを聞き届けた
大師は、「衛門三郎再来」と書いた石を手に握らせ祈願した。その後、伊予の河野家に
「衛門三郎再来」の、石を握った子供が生まれたという。
この子は、民を慈しみ、善政をしいたといわれる。


2008年04月01日
松山の空海縁の地 その3
丈の淵



ていれぎや 清き流れと 櫻鯛
弘法大師の伝説の残る名水の一つ。
お遍路さんがのどを潤すし、地元の人たちも水汲みに訪れます。
重信川の伏流水が、大量に湧出し大きな泉を形成し、
水路には「ていれぎ(オオバタネツケバナ)」が栽培されています。
(松山市指定天然記念物)
伊予節には、「高井の里のていれぎ」と唄われ、ピリッと辛く美味しいので、
殿様に献上する刺身のツマに、珍重されたそうです。
子規さんの俳句に、
秋風や 高井のていれぎ 三津の鯛
とあります。
















































