2010年03月11日
森村誠一の写文俳句 3月
月に花言葉のように月言葉があるとすれば、一月は希望、二月は予感、三月は期待の月であろう。春愁といわれる愁(うれ)いは、再生の四月にならないと本格的にならない。三月、何に期待するかといえば、あらゆる可能性に対する期待である。
二月の梅を前駆に、次々に開く春の花々も、三月になると日毎に莟(つぼみ)を膨らませていく。まだ見通しのよい林間にも春が芽吹き始めている。花に疎い者には、莟を見ただけではどんな花が開くかわからない。だが、莟が内包する花の幻影は実物以上に華麗であり、林間に弾む陽の光と共に、まだ見ぬ花形や樹影を想像させる。
莟のまま野鳥に食われてしまう確率もかなり高い。ようやく花を開き始めても、一夜の春の嵐に無惨にも散らされてしまう危険性も高い。莟が孕む無限の可能性は、同時に多くの危険にさらされているのである。
人間、また人生も同じである。この世に生を受け、親の手厚い庇護のもとに成長しても、親や周囲のあまりにも大きな期待のプレッシャーに潰されてしまう若者もいれば、引きこもり、家庭内暴力、あるいは非行に走る者もいる。生まれながらにして両親の保護を受けられぬ人や、貧しい環境や、心身のハンディキャップなどを負わされる人もいる。
だが、人生初期の共通項は、いずれも莟であるということである。人間の莟が孕んでいる可能性は無限であり、各種の危険やハンディキャップを乗り越えて開く花弁に寄せる期待も無限である。
乳母車期待を乗せて春支度
無限の可能性は、無限になにもないということにも通じる。
莟は小さいほど多くの可能性に富み、膨らんでいくほどに期待も大きくなっていく。
「むかし天才、いま凡人」という言葉が示すように、幼いころ、どんな偉才を発揮するかと期待を寄せられた神童が、成長してどんぐりになったという幻滅は深い。
だが、幼いころは等しく神から贈られた莟であり、それがどのような実を結び、花弁を開くかは本人の努力にかかるだけではなく、運命や運によって左右される。神童が凡人になったとしても、本人が怠けていたわけではない。莟はみな可能性の塊であり、期待という夢を孕んでいるのである。
どんな夢孕む莟や天を突き
三月、歩き慣れた散歩道での日毎に膨らむさまざまな莟を見ていると、人生の道程と重ね合わせてしまう。三月は人生にたとえれば、青春の第一期である。周囲の期待の重圧と、未来の無限の可能性を前にして、不安と希望に心が大きく揺れている時代である。これを「美しき惑いの年」と呼んだ作家もいるが、本人にしてみれば、無限という名前の可能性の重さをもてあましている人生初期であろう。
私は望むべくして小説作家になったが、これまでに書き重ねた作品を俯瞰(ふかん)して、当時、それらの一作も発表していない莟の時代、私は将来、なにになるのか、なにかになる前に、果たして自分に生きて行く能力があるのかと自らに問い、野心と不安の狭間で揺れ動き、期待という重圧に押し潰されそうになっていた。
いまにしておもえば、それは発表前の我が作品の重さであり、作品を世に出す糸口すらつかめぬ、いや、その作品の存在の有無すら感知できない焦燥に焙り立てられていたのであろう。
莟自体の惑いの年は、私にとって美しくなかったが、後年顧みて、やはりその時期は自分の青春のコア核であったとおもいあたる。
人生第一期は未来の胎動と、自分の中に潜む可能性の陣痛に悶えていたのである。
その意味で、三月は社会への門口にたたずむ若者たちの陣痛の時期でもある。未来の胎動と、可能性の陣痛のない青春はない。つまり、三月は季節の青春期でもある。老若いずれにしても、この季節、青春を感覚する。そんな感覚が消えた者にとっては辛い季節であるかもしれない。
その辛さすら感じなくなった者にとっては、三月のあらゆる可能性を含む莟の季節は、風化した忘却の時期でもある。季節感が風化した人生は、あるいは悟りの境地かもしれない。
惑うても天に向かって立つ莟
顧みて莟の時期(ころ)の風痛し

2010年02月19日
森村誠一の写文俳句2月
師走という年末は、時間の経過の速い月の見本のようになっているが、新しい年を迎えたとおもうと、あっという間に二月になってしまう。
一年のうちで最も短い二月は、その分、経過するのも速く感じられる。春を待つおもいが、時間の流れを加速するのかもしれないが、年末年始の長休みにたるんだ心身が、立ち直れぬ前に二月の声を聞く。
世間はまだ厳冬の最中であるが、莟(つぼみ)の硬い梢にきらりと風が光ったような気がする。春は予感が先走り、体がついていけない。北国はまだ深い雪に閉じ込められており、雪国ではなくとも、本格的な春を迎えるまでには、数回は降雪を迎えなければならない。
初雪見を競った粋人たちは、厳然として微動だにしない冬将軍の支配下を、梅や、沈丁花の芳香を探して杖を曳(ひ)く。
二月という月は、年始の一月と万物生成の三月にサンドイッチされた、いわば超大国に挟まれた小国のような厳しさをおぼえる。ビッグな年中行事も、ミニイベントも少なく、年末年始で吐き出してしまった人々の懐中も心細い。
二月の命運を担って孤軍奮闘するのは梅である。沈丁花はまだ気配もなく、寒中凛然として花を咲かせる梅は清楚であり、気品がある。桜は艶麗にすぎて、いささか節操に足りないように見えるが、梅は清楚な処女のようである。梅の香りに誘われておそるおそるといった形で引き出された沈丁花の芳香は、初めてキスを知った初恋の乙女のようである。
人生にたとえれば、梅は青春の原形であり、二月にその原形が形成される。
梅研究会理事長松本紘斉氏は本誌特集「梅花のはなし」において、
――人は梅なり
寒風に堪えてこそ
他にさきが魁けて
花ひらくなり――
と的確に凝縮して描写されているが、まさに梅の莟こそ、青春の原形であり、人生の可能性を凝縮しているように見える。
それぞれの莟宿すや明日の夢
梅の香りを嗅ぐ都度、私は郷里の町のある場所をおもいだす。
私が通っていた高校は男子校であり、バンカラな校風であった。女子高校は私の学校と正反対の方角にあり、登下校時、市内の交差点で両校の生徒が一瞬すれちがう。交差点の角にある家の庭に三、四本の梅の木があり、二月には百花にさきが魁けて白い花弁をつける。
私には意中の女子高生がいて、登下校時、その女子高生とすれちがうのが楽しみであった。
おおむね登校時は同じ時間帯であり、たいていすれちがう。彼女の時間を統計的に計った私は、最も可能性の高い時間帯を狙って交差点を渡る。いったん渡った以上、彼女とすれちがえなくとも引き返せない。そんなことをすれば連れ立って登校する校友たちから不審がられてしまう。
彼女に会えた朝は一日中心が弾み、会えなかった日は落ち込む。
朝、行きちがって会えなくとも、下校時にチャンスがあったが、下校時はまちまちでなかなか出会えない。首尾よく時間が一致して交差点で彼女とすれちがえたとき、角の家から漂ってくる気品のある梅の香りが、彼女の残り香のように感じられた。
梅の香る早春に、一瞬の交差点で彼女とすれちがう頻度が高くなるような気がした。おそらくは先方になんの印象も止どめなかったであろう一方的な出会いであったが、梅の香りは私の初恋を包む香りであった。
ただ一言の言葉を交わしたわけでもなく、ほんの数秒、梅の香る街角での出会いが、その後の私の異性に対する宗教的な憧憬の原点になっている。
その後、馬齢を重ねて人並みに憂き世の汚濁に染まっても、早春の寒気に凛として立つ枝振りと、気品ある清らかな香りは、私の初恋の面影の残り香のようになっている。
桜や椿や他の花では、いくつかの恋と重なることはあっても、初恋の面影の人とは重ならない。名前も住所も知らぬ郷里の街角ですれちがっただけの幻の少女は、いまでも私の青春の記憶の中で、梅の花とオーバーラップして不動の位置を占めている。
他の花をもっては替え難い幻影が、あたかも梅の花精であったかのごとく、私の追憶の中で永遠なのは、ついに達することのなかった初恋こそが、梅のように清らかな形と、気品ある香りを不朽のものとしているからであろう。
恋は達成した瞬間に、恋そのものを恋するストイックな姿勢を失う。あたかも花精に恋するがごとく、想いを捧げることはできても、それに触れてはならない。ストイックな純愛こそが初恋であり、それゆえに永遠の香気を失わないのである。初恋を季節化したのは二月であるかもしれない。
待つ莟咲く花群(はなむら)も淡匂い
※筆者註:写真はすべて我が家の庭の梅です。
2010年01月19日
森村誠一の写文俳句1月
毎年、年が替わる都度、自分が変わるような気がする。そして年末にたどり着き、ほとんどなにも変わっていないことに気がつく。変わったとすれば、むしろ悪いほうに変わっており、変わらなかった年は平穏無事な年だったのである。
劇的な変化というものは宝くじに当たるような幸運や、よほど不幸な出来事や、事件や、災害に巻き込まれなければ発生しない。家族や親しい人たちと死別するのは、死因が不幸な出来事でない限り、人生において避けることができない順番である。子が親よりも早く死ぬのは最大の親不孝であるといわれるが、これは人生の順番を替えたからである。
「紅白」を見て除夜の鐘を聞き、初詣の後、初日の出を眺めるという順番も、人間が文化をもち合わせてからなんとなく定まっているが、文化がない時代は、盆や正月の年中行事もなく、初日の出は毎日繰り返される天然現象にすぎない。初日の出を見るために危険を冒して山に登ったり、寒風に吹かれて海岸に立つのも、文化が人生に刻み目をつけたからである。
ほっとする不眠の夜のご来光
暦のない時代には、日の出や、入り日や、月や星の位置などによって時刻と季節を刻んだ。
江戸期、旧暦の時代は、日の出と日没に昼夜の終始点を定めて、昼夜六刻ずつの十二刻に区分して、それぞれ十二支で表現した。日の出と日没を基準にするのであるから、季節によって昼と夜、また一刻ずつの長さが異なってくる。春分と秋分の日だけ昼夜同じ長さであり、昼夜刻、および昼夜の長短が異なってしまう。
例えば昼が最も長い夏至は、江戸で日照十二時間半、一刻二時間二十五分。昼が最も短くなる冬至は、日照九時間四十五分、一刻が一時間三十八分。一刻当たり最大四十七分の差が出てしまう。しかも、四半刻約三十分以下の二十分や三十秒という細かい時間の区分はない。こんないいかげんな時間区分で、毎日の生活を営んでいたのであるから、さぞやすれちがいや遅刻、早着などがあったであろう。
例えば赤穂浪士が何度も会合し、四十七士集合して吉良邸に討ち入るまで、相互の連絡は大変な苦労があったであろう。たまの逢瀬の恋人たちもすれちがい、悲しい想いをしたにちがいない。
時計が発明された後ですら、すれちがいは恋愛ドラマの定番になっていた。今日ならば「愛染かつら」や「君の名は」のような悲恋ドラマは成立しない。機械文明の発展は恋愛ドラマやミステリーの設定を極めて難しくしている。
今日の恋人たちは携帯電話一本の連絡で、なんの苦もなく出逢うことができる。身分差別や戦争などを含めて、なんの障害もない恋愛ドラマは面白くもおかしくもない。
むしろ、時間の奴隷となった今日の恋人たちは、はるかにスケールの大きなすれちがいをするようになる。
虎落笛(もがりぶえ)窓なき家をすれちがい
あるSF作品に、宇宙飛行士が恋人に別れを告げて宇宙に旅立つ。地球時間と宇宙時間の経過は異なり、パイロットの恋人が地球に帰って来る遥かな未来まで彼女は生きられない。そこで恋人に会うために、彼女自身も宇宙パイロットとなって宇宙船に乗って追いかける。同じ宇宙に飛び立てば、宇宙時間の経過が同じになると考えたのである。
ところが、地球に帰って来ると、宇宙では微妙なズレであった時間が、地球時間では数百年に相当し、家族や親しい人々はすべて死去しており、地球に帰って来ているはずの恋人にも会えない。恋人は彼女が宇宙船に乗って彼を追いかけたことを知り、地球に待っていても会えないので、ふたたび宇宙船に乗って宇宙へ飛び出す。こうして二人は宇宙で際限もなくすれちがいを繰り返すというストーリーである。
消えた家木枯し停まるところなし
壮大なすれちがいであるが、アインシュタインの相対性理論は宇宙時間の一瞬を、地球時間の数百年にしてしまうので、地球の機械文明では歯が立たない。
この二人の恋は、果たして宇宙で結ばれたか。磨き抜かれた冬の夜空を見上げる都度、私はこの壮大なすれちがい悲恋ドラマをおもいだす。時たま視野を横切る流星が、恋人を追う宇宙船のように見える。宇宙で再会した二人は、もはや地球の時間の奴隷となることを拒み、別の星に住み着いたかもしれない。
死者の魂が星に化して、夜空を鏤(ちりば)めているという優しい伝承が、いまは亡き親しい人の面影を夜空に探させるが、私には満天の星空を眺める都度、宇宙で再会した恋人たちがそれぞれの星に住み着いて愛を交信しているようにおもえる。
寒星や億光年の恋便り
2009年12月23日
森村誠一の写文俳句12月
ノグンリは韓国の首都ソウルから南百六十キロ、釜山から北二百四十キロに位置している忠清北道永同郡(チュンチョンプクドヨンドングン)の山間にある小さな村である。ソウルの公演後、第二の公演地清州に向かう途上、私はノグンリに立ち寄った。
ソウルから南下をつづけたバスは、ようやく緩やかな起伏を連ねる山間に分け入り、車窓に密度の濃い緑が迫った。バスは置き忘れられたような小さな村に入った。村といっても民家はあまり見当たらず、鉄道線路が走る下に二つのトンネルが穿(うが)たれ、トンネルの壁に白い○印(じるし)や△印が描かれている。
トンネルの手前にテントが張られて、人が群がっていた。そこが朝鮮戦争勃発直後、約四百人の避難民の中に北朝鮮軍兵士が紛れ込んでいるという疑惑のもとに、女性、子供、老人の別なく、三日間かけて虐殺したというホロコーストの現地であった。○や△のマークは虐殺の弾痕であった。
我々がノグンリを訪問した当日が、第五十九周忌期にあたり、犠牲者の合同慰祭祭が行われていた。ツアーの訪問日をこの慰霊祭に合わせていたようである。
驚いたことに慰霊祭の参加者は、韓国の人より日本人観光客が圧倒的に多い。私はノグンリという名前をどこかで聞いたような薄い記憶があったが、その地がそのような凄まじいホロコーストの場所であるとは知らなかった。
生存者が謝罪と損害賠償を求める陳情書を米国政府に送ったが、三十数年間無視され、AP通信の取材調査によって世界に発表され、二〇〇一年一月、ようやくクリントン大統領が遺憾の声明を発表した。だが、まだ謝罪には至らず、生存者の訴えがつづいている。
地元では、ノグンリをこのような虐殺を二度と繰り返さぬよう、ノグンリを老斤里(ノー・ガン・リ。兵器を拒否する里)として世界に発信し、このような蛮行を伴う戦争を再発させぬための防波堤にしようという運動を起こしている。
慰霊祭の後、生存者の証言集会に出席した私は、その一人、当時八歳、小学校二年生であった鄭求学(チョン・グハク)氏から、銃撃にあって鼻柱を吹き飛ばされ、顔に二つの鼻穴だけを残し、トンネルの中で三日間生きつづけて、探しに来た兄に助けられたという証言を聞いた。兄が水を飲ましてくれたが、全身のあちこちから水が漏れたという。
鼻も頬もなくなった鄭氏を見た父親は「とても助からないから山に埋めて来い」と命じたが、鄭氏は重傷に耐え、生き残り、整形手術を何度も受けて、その後、魚の行商をしながら事業に成功して、現在、永同ロータリークラブ会長として証言をつづけている。
顔を奪われた鄭氏は、その凄まじい死線をさまよった人とは別人のようなよい顔をしている。悟りを開いた高僧のような顔は、どんなに絶望的な環境にあっても希望を失わない意思を示している。
女性証言者梁海淑(ヤン・ヘスク)氏は爆風に吹き飛ばされ、飛び出した左の眼球が紐のような視神経の末端にぶら下がっているのを、自らの手で左眼の洞には嵌め戻したと語る。聞くだに卒倒するような虐殺の中を生き延びて、戦火の悲劇の再発を防ぐために証言をつづけている。
できれば耳をそむけたい、目を閉ざしたい、忘れたい、歴史の愚行蛮行に対決してこそ、人間は学ぶ。
虐殺の慟哭聞こゆ熱き洞(うろ)
ノグンリを後にした私は、
「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になる。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、また同じ危険に陥りやすい」
と元独大統領ワイツゼッカーの言葉をおもいだした。過去に学ばない者には未来もないのである。
韓国旅行を終えて日常の暮らしに戻ると、いつの間にか街には師走の風が吹いている。月は夜毎に冴えて、蒼い月光が街や野山に等しく弾む。古きよき行事、十五夜や虫聞き、煤払いなどは廃れかけているが、可惜夜(あたらよ。眠るには惜しい夜)の月の香りには変わりない。
第二次世界大戦中、悪魔部隊と称された七三一部隊のエピソードをおもいだす。
人体実験の材料(これをマルタを呼んだ)として、七三一部隊に監禁された一人の中国人は、中秋節には家に帰って一緒にお月見をしようという約束を娘と交わしていた。だが、彼はマルタの運命を悟って、あり合わせの材料で赤いシナ靴をつくり、「もしあなたが私の娘に会ったら、この靴を渡して伝えてほしい。父はおまえとの約束を守れなくなったが、せめてこの靴を履いて遠くまで歩いて行きなさい。独りで歩くには早すぎるおまえだが、だれでもいずれは独りで歩かなければならない。父の靴がおまえの足を守ってあげると」と、七三一部隊員に託した。
押しつまるに連れて、宙天高く凍りついたように冴えてくる月を家族や友人と見られることは幸せである。たとえ独りで眺めても、だれとも約束を破らずに見られる環境や人は幸せである。
年末に回想が伴うのは、凍った月面に過去が反映しているせいかもしれない。だが、しみじみと月を見る人は少なくなっている。日常の暮らしの多忙さが夜を圧迫し、過去をしみじみと振り返る時間を奪っている。夏がすでに遠いのは、夏のダイナミズムのせいではなく、人は過去を振り返る余裕がなくなったせいかもしれない。
年の瀬は、過去を忘れかけている人々に、その危険性をおしえる季節でもある。
橋いくつ越えていずこに行く年ぞ
2009年11月26日
森村誠一の写文俳句11月
ようやく秋の残暑もおさまり、台風の襲来も間遠(まどお)になると、いつの間にか山野が色づいている。ダイナミックな夏が遠ざかるにつれて、朝夕はめっきり涼しくなる。北へ行くほどに秋の足音が速くなる。
この道を歩み残して秋の暮
夏の記憶は、つい最近のことでも遠い過去のような気がする。他の季節に比べて、夏自体がダイナミックであるせいか、記憶に刻まれるような体験は夏が多い。楽しい追憶や、過酷な体験や、悲惨な事件や災難は、夏が多いように感じられる。戦争も夏のイメージが濃い。
夏には年中行事や各種イベント、また夏休みを利用した長期旅行も集中する。夏という燃える季節がそのようにおもわせるのかもしれない。それだけ夏の記憶は強烈でありながら、遠いような気がする。強烈であればあるほど遠くなる。夏の空に盛り上がる積雲の峰が白く輝く都度、昨日の体験がすでに遠ざかっている。
さし招くかなたの雲や遠き夏
そのせいか、夏に取って代わる秋は内省、また回想の季節となる。深みを増した空に張りついたように動かない鱗雲を見ていると、夏の日の追憶がはるかな青春の想い出に連なっていくようである。あれこれ計画を立てたものの、果たし終えなかった未練を煮つめるように、秋の陽脚は日毎に短くなる。
夏季に開放した自分をしみじみ見つめ直す秋の配置は、まさに自然の絶妙な配分であるとおもう。
この夏、韓国に旅行した。私の原詩を池辺晋一郎氏が編詩・作曲した合唱組曲「悪魔の飽食」を韓国で公演するためである。
韓国にはいまだに日本軍政下、および朝鮮戦争の傷跡が各所に残っている。現地の案内者が、韓国ではこの半世紀、朝の挨拶が三度変わっていると言った。
まず日本植民地時代と南北(朝鮮)戦争時代は、「昨夜はご無事に眠れましたか」。そして戦後の政情不安定な時代は、「昨夜は夕食を食べましたか」。そして今日になってようやく、「昨夜はよくお寝(やす)みになれましたか」と通常の挨拶になったそうである。なんでもない朝の挨拶に、隣国が味わった苦難の時代が刻まれている。
朝起きて、家族や近所の人たち、会社の同僚、上司、部下たちと朝の挨拶を交わせるのは幸せである。「おはよう」の一言に平和が象徴されている。平和を飽食していると、その幸せを忘れがちである。まだ地球上には朝の挨拶など交わせない国や地域が少なくない。「おはよう」という言葉に、そんな時代の反映があることを、この度の韓国旅行で知った。そして、四季のメリハリがきいた日本に生まれ、住んでいることの幸せを改めて実感した。
早朝、霜柱の立つ庭に昨日とはちがう新しい一日が始まるぞと新たな期待をもてるのも季節のもたらす恩恵であろう。
霜立つや昨日を拒む今朝があり
これが一年じゅう夏であったり、冬であったり、初夏のような気候であったりしたら、春の希望や、夏の想い出や、秋の追想なども、さしたる起伏のないのっぺりした時間の経過になってしまうかもしれない。
韓国は最も近い隣国でありながら、まだまだ距離がある。かつて日本軍政下の傷跡を見せつけられる旅は辛いものがあったが、帰って来るとき、その距離が少し縮まったようにおもえた。
だが、ソウルから第二の公演地チョンジュ清州に向かう途上立ち寄ったノグンリ老斤里という山間の小村で、生涯忘れられぬイベントに出会った。
南北を分けたるままや夏は逝き
(対岸は北朝鮮 燃料にするため山が丸坊主になっているという)



