2010年07月26日

森村誠一の写文俳句7月

夏は行事が多い。夏を通して最大の行事は祭りとお盆であろう。祭りには郷愁があり、お盆には故人への想いが募る。そして、夏になる都度、これまで通り過ぎてきた人生のそれぞれ夏を想起する。その意味で夏は未来よりも過去を振り返るような気がする。そして、その過去はいつも遠い。昨年の夏の想い出が大昔のように感じられる。個人差はあるが、加齢と共にその傾向が強くなるようである。

 日本列島は四季のメリハリが利いている。これが極地や熱帯のように年間を通して冬、あるいは夏のような気候であったら、四季折々の人間の感情やライフスタイルものっぺりしたものになってしまうであろう。『歳時記』に記された四季折々の森羅万象、人事百般も、視野の限り同じ風景がつづく砂漠のように統一されてしまうかもしれない。日本列島は四方海に囲まれ、東西南北にわたって長く伸び、太陽が及ぼす恩恵を最も多様に受ける位置を占めている。日本の文化は四季の織りなす文化といってもよいほどに、その国土の占める位置と関わりが深い。

 いよいよ開幕を迎える灼熱の夏も冬と対応しており、その前提に梅雨がある。夏にイベントが多いのは、湿度の高い夏の暑熱を逆用して解放的なエンターテインメント化した日本人ならではの発想である。熱帯では考えられない発想であろう。日本の灼熱の夏は脆い。脆いがゆえに、やがて寂しき祭りに向いており、故人を偲ぶ絶好の季節なのである。機械文明に押されてかなり奥地へ行かないと見られなくなった蛍の幽玄な光に、死者の魂を寄託した発想も、日本ならではの夏があるからである。

 夏に遠い想い出と永遠の郷愁を抱いている人の人生は、おおむね恵まれているであろう。我々の世代は夏に凄惨な戦争をはさんでいるが、その記憶すら、すでに遠い想い出の中に人生の起伏として織り込まれている。戦争によって親しい人を失い、その傷痕をいまだ背負いつづけている人にとっては、夏は残酷な季節であるかもしれないが、人間にはいやな記憶や、苦しい体験を償う忘却作用がある。決して忘れられない、あるいは風化してはならない記憶や体験も、時間の経過のうちに薄れていく。その作用が夏は最も著しいようである。

 雲の峰その日無念の色遠し

 人間は生きている間に多数の出会いをし、多くの体験を積み重ねる。その中で、夏は出会いと体験が最も多いようである。その理由は、夏というこの季節特有の解放感に加えて、日本独特の高湿の暑熱が人を家の中から外へ、涼しい山間や水辺へ、日中から夜間へと追い出すからである。つまり、家の中に閉じこもっている時間よりも、外にいる時間のほうが多くなる。夏の生活時間の配分は冷房の普及によってかなり変わってきてはいるが、狭い屋内よりも外へ出たいという心理傾向には変わりがない。

 こうして夏、出会った男女の間に恋が発生する。夏の恋は長つづきしないといわれるが、それは夏の脆さとも関連しているようである。

 二十代から三十代にかけて、私はしきりに山に登った。当時は北アルプスの全盛期で、戦時下、戦場や勤労動員されていた若者たちが一斉に山に戻って来た。当時、山は若者たちの天下であった。当時の若者が今日、シルバーエイジとなって山に戻ってきているわけではない。

 戦雲のごとく立ちたり夏の奥

 学生時代最後の夏、穂高に単独登山した。途中の雪渓で単独行の若い女性が滑落した。下方の雪渓の果てには岩が凶悪な牙を剥きだしている。彼女の少し下方を登っていた私は、ピッケルを雪渓に突き立て、際どいところで彼女の滑落を止めた。

 それが縁になって、毎年夏、穂高で出会った。何度か穂高のデートを重ねたある夏、彼女が約束した場所に姿を現わさなかった。今日のように簡単に連絡を取り合える携帯があるわけでもない。私は寂しく一人、穂高に登って帰宅して来ると、彼女からの手紙が待っていた。近く結婚するという知らせであった。そして末尾に、「あなたとの想い出を宝にして嫁いで行きます。あなたは山ばかり見て、私を見てくれないのが寂しくなったのです。もう穂高でお会いすることはないとおもいますが、ご機嫌よう。そして、有り難う」と書き記されてあった。

 何度も結びの文章を読み返しながら、私は胸を締めつけられた。好感を抱いていたが言い出せなかっただけである。その後しばらく喪失感が大きく、山に登る気がしなかった。つまり、恋と同時に山恋も失ってしまったのである。

 置き忘る夏の行方や乳母車

 夏は出会いの季節であると同時に、喪失の季節でもあることを、そのとき私は知った。だが、千載一遇の機会を失ったにもかかわらず、彼女が歩んでいくであろう新たな未来を、かつて穂高の頂上に立って彼女と共有した蒼い遠望と重ねていた。夏の想い出が遠く感じられるのは、あの穂高の遠望のせいかもしれない。

 想い出を置き去りにして雲や立つ

「梅家族」梅研究会発行より転載 

2010年07月26日 »

2010年07月09日

森村誠一の写文俳句 5月

 春がようやく蘭(た)けると、五月である。春愁を踏まえて五月病に悩む者もいるが、年間を通して五月は最も溌剌としており、芳しい季節である。

 一年のうち、どの月が最も好きかというアンケートを取れば、五月が圧倒的に人気がある。それはゴールデンウィークの応援もあるであろうが、この月本来の溌剌たる芳しさが人気を集めていることは否めない。五月病は春愁以上に、季節自体の生命力についていけない位負けから発する。

 大晦日、「紅白」を一人で見る寂しさに耐えられず、友人の家に集まってみたり、友人のいない者は盛り場に出てカウントダウンに加わったりして、さらに深い孤独を味わう。群衆の中の孤独を季節の中に移したようなものである。

 だが、祭りに参加していると、他人の体熱を冷えた心身にうつされるように、五月という季節のお祭りに参加していると、いつの間にかその陽気に心身が浮かれたっている自分に気がつく。

人生の岐路いく度(たび)や鯉幟(こいのぼり)


 五月晴れの空は手を伸ばせば染まるほどに青く、新緑に染まった薫風が季節の芳しい香りを運んでくる。空には五月の光をいっぱいに吸い込んだ白雲が悠々と漂っている。

 俳聖芭蕉をして、「片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず」と、おくのほそ道へ誘ったように、地平線のかなた、遠方への想いを誘われるのも五月である。民族大移動といわれるほどのゴールデンウィークを、四月末から五月の初めに設定したのも絶妙である。

 五月の出会いには運命の出会いが多いという。特に根拠はないが、五月にはなにか(特によいことが)起きそうな予感が走る。それは光る風に乗って予感が運ばれて来るからである。

五月晴ペンギンまでが空を飛び


 新緑をかすめてきらりと光る風の行方に、不吉なことを連想する者はいないであろう。薫風の行方に運命の出会いを予感した者は、群衆の中の孤独も、運命の前提となっている。



香り立つ五月の奥に会うは誰そ

 人にはだれでもただ一人の異性がいるそうである。ただ一人の異性は、現在の恋人や配偶者とは限らない。この世に生を受け、ただ一人の異性に出会えるという保証はない。あるいは出会っていても、たがいに気がつかず、すれちがっているかもしれない。

 ただ一人の異性には年齢差も限定されない。親子・孫ほどの年齢差があっても、ただ一人の異性であることに変わりはない。この世界のどこかに、自分のために生まれてきたただ一人の異性がいるとおもうだけで、群衆の中の孤独感はかなり癒される。

 そして、ただ一人の異性に出会う機会は、五月が最も多いとされる。根拠のない言い伝えであっても、いかにも五月を象徴するようなロマンティックな伝承である。

 たしかに五月ほど、ただ一人の異性に出会うにふさわしい月はない。四月は多彩な花に目移りがしすぎて、七月、八月は放恣にすぎる。秋は寂しく、冬は閉じこもりがちになる。漂泊の詩人や旅人は、ただ一人の異性を探すために、地平線や水平線のかなりに向かってさすらっているのかもしれない。

 時間刻みの予定に縛られ、ほぼ完全に管理化された現代に生きる人間にとって、五月は管理の窓が広く開かれる月である。その窓からの風景に、ただ一人の異性を探すも、漂泊の想いに誘われるも、未知の可能性を追い求めるも、そして自らせっかく開いた窓を閉じるのも、それぞれの自由であり、五月のあたえる恩恵なのである。

引きこもる窓に映るも五月晴れ

「梅家族」梅研究会発行より転載

※管理人より
5月号を飛ばして6月号が先になってしまいました。この文章は5月号です。
申し訳御座いません。

2010年07月09日 »

2010年06月01日

森村誠一の写文俳句 6月

新緑に燃えた街が柔らかく烟(けむ)っている。梅雨前線が停滞して日本列島は鬱陶(うっとう)しい長雨に閉じ込められる季節であるが、夏の猛暑に備えて植物にたっぷりと水分を補給する貴重な季節でもある。

 長雨というが、三日以上つづくことはめったにない。梅雨の末期に豪雨が降って水害をあたえることもあるが、六月の雨が少ないと、日本列島は水不足で干上がってしまう。霧のような雨が降りつづいて、森羅万象(ものみな)の輪郭がソフトフォーカスに烟る。こういう雨は一年のうちでめったに降らない。六月の雨季ですら、梅雨の晴れ間があって、せっかくの雨が断続してしまう。

 六月は新緑の五月と、海・山開きの七月にはさまれて分が悪いが、世界各国を旅行して日本に帰って来ると、この季節の貴重さがよくわかる。六月の雨を梅雨(つゆ)と呼ぶが、雨季(うき)とか長雨(ながさめ)に比べて、なんと情緒的な呼称であろう。梅雨に烟る街を行く人々の表情は、常よりも優しく見える。江戸期には、この季節に雨見(あまみ)と呼ぶイベントがあったという。花や星を見るように、雨を見に行くのである。

 六月に結婚する女性をジューンブライドと呼ぶが、他の月の花嫁よりも特別扱いを受けているのである。新緑の残る中に、六月の雨に烟る花嫁、まさに一幅の絵のようである。だが、ジューンブライドは日本で発明された言葉ではない。ジューンブライドは奇しくも日本の季節によく合う。

「雨が降っていた」という小説の書き出しとむすびは多い。「雨が降っていた」の書き出しは、今後の展開に情緒的な広いスペースをもたせる。また同じむすびは余韻を引く。見知らぬ駅に下り立ったとき雨が降っていて、駅前に車もなく、足を踏み出し兼ねているとき、背後から傘を差しかけられてロマンスが始まる。そんなときの雨は豪雨やスコールや氷雨は合わない。

 ロマンスの発端は六月の雨に限る。和服の女性が六月の霧雨の中を蛇の目傘を傾けて行く姿などは、そのまま絵となる。だが、そんな光景は今日ほとんど失われてしまった。六月と雨はセットになっていて、雨が六月の文化を育んだといってもよいであろう。

 雨中に置き忘れたような想い出は私にもある。学生時代、といっても留年して、さしたる講義もなく閑(ひま)をもてあましていた私は、一人で北陸地方をまわり、富山から高山、名古屋を経て、吉野の熊野古道を伝い、新宮、潮岬へ抜ける旅行をした。

 途上、富山駅でベンチに腰掛け時間待ちをしていた私は、ぼんやりと自分の将来を模索していた。留年は態のいいモラトリアムであり、私は社会に押し出されるのが怖かった。自分には生活能力があるのかないのか、果たして社会に出て自立していけるのか。過剰な自信は一人旅をしている間に、空気が抜ける風船のように萎んでいった。少なくとも学校に草鞋(わらじ)を預けている間は、学生として社会の荒波にさらされることはない。

 六月の下旬で雨が降っていた。駅の同じベンチに少し距離をおいて若い女の子が坐っていた。彼女も一人旅らしく、スーツケースを持っていた。私はなんとなく彼女が気になっていた。同じホームの同じベンチに腰掛けているので、同じ方角に行くのだろうとおもったのである。

 そのうち彼女が時計を見てそわそわし始め、おもいあまったように、「××に行くのは、このホームでよろしいのでしょうか」と問うてきた。××という地名を私は知らなかったが、
「このホームは高山行ですが」
 と答えると、彼女は驚いて立ち上がった。折から別のホームに列車が入線して来た。ホームちがいであった。
「いまから走れば間に合いますよ」
 と声をかけると、彼女は「有り難う」と答えて走り去った。

 それだけの出会いであったが、彼女が去った後のベンチを見ると、傘が置き忘れられていた。慌てて呼び止めようとしたが、すでに彼女の姿は視野になかった。傘を持って追いかけようとしたが、私の乗るべき列車が入線して来ていた。発車時間まであまり間がなく、駅の遺失物係に届け出る時間に足りない。私は仕方なく彼女が遺留した傘を持って高山行の列車に乗った。

幻影を追いたる傘や梅雨走る

 高山も雨がつづいた。傘を持たずに旅に出た私は、高山以後の旅中、雨が降る都度、彼女の傘を無断借用した。まだ折り畳み傘のない時代で、たっぷりとスペースを取った薄いピンクの女性用の傘には、彼女の残り香が漂っているようであった。

梅雨におう君の香りを運びたり

 どこのだれとも知らぬ女性の遺留傘を横領した私は、旅の想い出としてその傘を大切に保存していたが、いつの間にかどこかにしまいなくしてしまった。

 若き日の旅の途上、ただそれだけの出会いであったが、その傘の主の少し寂しげな横顔が私の瞼裏に残っていた。それも、傘が失われると同時に忘れてしまった。

かりそめの面影と知れ傘の内

 きっと彼女もその傘を大切にしていたにちがいない。せめて私が拾って大切に使っていることを知らせてやりたいとおもったが、そのときから数十年も経過してしまった。街で薄いピンクの傘をさしている女性を見かける都度、彼女のその後の人生を想像するのである。

梅雨走る傘に面影置き忘れ

「梅家族」梅研究会発行より転載

2010年06月01日 »

2010年04月30日

森村誠一の写文俳句 4月

すべての莟(つぼみ)が悉(ことごと)く開花する四月は、万物揃い踏みの季節でもある。春たけなわになるにつれて、春愁が深まる。万物よみがえり、溌剌たる生気が都会や地方、山野を問わず弾み立つ時期、なにゆえの愁(うれ)いなのか。

 年度はおおむね三月をもって切り換わり、四月から新しい年度となる。卒業式や人事異動による別離は、おおむね三月をもって終わり、四月は出会いの月となる。常々親しんだ人たちと異なり、新たな出会いは常に不安を伴う。異動と共に環境も異なり、時空共に未知の世界に入っていく人たちも多い。

 四月は期待の月であると同時に、未知の出会いや環境に対する不安と警戒の月でもある。未知の者は敵性とみなす自衛本能が働く。新たな人間関係や未知なる環境に順応できないストレスが、春愁となって五月病の素地(そじ)ともなる。

 だが、春の愁いは、ストレスよりは多彩な花に彩られる艶麗な春について行けない気後れ(コンプレックス)から意気消沈してしまう。一種の位負けである。どんな平凡な街角、単調な風景であっても、色とりどりの花に飾られた春は、陽が昏(く)れた後も花の香りが漂い、月影が霞んでいる。

 なにか自分の人生を決定づけるようなことが起きそうな予感に満ちた環境にありながら、結局、なにも起きない季節の移り変わりの中に、人は春の愁いを深くしていく。世間には、愉しげで幸せそうな人々がそれぞれの春を愉しんでいるように見える中で、自分一人が疎外されているような孤独感に陥る。

それぞれの春日に立ちて独り街(まち)

 季節の変わり目、新年度のスタートは人生の節目でもある。節目の乗り越え方によって、その後の人生の方途が変わることもある。

 人生につきまとうさまざまな愁いの中で、春の愁いは贅沢な愁いであるかもしれない。なぜなら、春愁は絶望的な環境や、不幸のどん底、あるいは生命の保障のないときにある者にはほとんど感じられない。春愁の源である艶麗な春を感じる余裕がないからである。季節に対する位負け以前に、不幸のどん底にあっては、季節そのものを感じる余裕がない。

 だが、一昨年の夏、アウシュヴィッツを訪問したとき、私は認識を改めた。ナチスによってアウシュヴィッツに強制連行された人々は、ガス室に送り込まれる直前まで希望を捨てなかった。遺品の展示場の一隅に、靴積みの缶が山積みされていた。彼らは明日を信じて絶望的な環境の中で、靴を磨いていたのである。

明日ありと靴磨きけり冬の檻

 藁を敷いただけの三段、あるいは四段ベッドに五百人が縦に押し込まれ、トイレは二つしかあたえられなかったという非人間的環境において、靴を靴墨で磨いて、明日への望みを捨てなかったという。

押し込まれ三段ベッドや隙間風

押し込まれ死床と知れど明日の夢

 春愁をおぼえる都度、私は靴を磨くようになった。

「梅家族」梅研究会発行より転載

2010年04月30日 »

2010年03月11日

森村誠一の写文俳句 3月

月に花言葉のように月言葉があるとすれば、一月は希望、二月は予感、三月は期待の月であろう。春愁といわれる愁(うれ)いは、再生の四月にならないと本格的にならない。三月、何に期待するかといえば、あらゆる可能性に対する期待である。

 二月の梅を前駆に、次々に開く春の花々も、三月になると日毎に莟(つぼみ)を膨らませていく。まだ見通しのよい林間にも春が芽吹き始めている。花に疎い者には、莟を見ただけではどんな花が開くかわからない。だが、莟が内包する花の幻影は実物以上に華麗であり、林間に弾む陽の光と共に、まだ見ぬ花形や樹影を想像させる。
 莟のまま野鳥に食われてしまう確率もかなり高い。ようやく花を開き始めても、一夜の春の嵐に無惨にも散らされてしまう危険性も高い。莟が孕む無限の可能性は、同時に多くの危険にさらされているのである。

 人間、また人生も同じである。この世に生を受け、親の手厚い庇護のもとに成長しても、親や周囲のあまりにも大きな期待のプレッシャーに潰されてしまう若者もいれば、引きこもり、家庭内暴力、あるいは非行に走る者もいる。生まれながらにして両親の保護を受けられぬ人や、貧しい環境や、心身のハンディキャップなどを負わされる人もいる。

 だが、人生初期の共通項は、いずれも莟であるということである。人間の莟が孕んでいる可能性は無限であり、各種の危険やハンディキャップを乗り越えて開く花弁に寄せる期待も無限である。

乳母車期待を乗せて春支度

 無限の可能性は、無限になにもないということにも通じる。

 莟は小さいほど多くの可能性に富み、膨らんでいくほどに期待も大きくなっていく。
 「むかし天才、いま凡人」という言葉が示すように、幼いころ、どんな偉才を発揮するかと期待を寄せられた神童が、成長してどんぐりになったという幻滅は深い。

 だが、幼いころは等しく神から贈られた莟であり、それがどのような実を結び、花弁を開くかは本人の努力にかかるだけではなく、運命や運によって左右される。神童が凡人になったとしても、本人が怠けていたわけではない。莟はみな可能性の塊であり、期待という夢を孕んでいるのである。

どんな夢孕む莟や天を突き

 三月、歩き慣れた散歩道での日毎に膨らむさまざまな莟を見ていると、人生の道程と重ね合わせてしまう。三月は人生にたとえれば、青春の第一期である。周囲の期待の重圧と、未来の無限の可能性を前にして、不安と希望に心が大きく揺れている時代である。これを「美しき惑いの年」と呼んだ作家もいるが、本人にしてみれば、無限という名前の可能性の重さをもてあましている人生初期であろう。

 私は望むべくして小説作家になったが、これまでに書き重ねた作品を俯瞰(ふかん)して、当時、それらの一作も発表していない莟の時代、私は将来、なにになるのか、なにかになる前に、果たして自分に生きて行く能力があるのかと自らに問い、野心と不安の狭間で揺れ動き、期待という重圧に押し潰されそうになっていた。

 いまにしておもえば、それは発表前の我が作品の重さであり、作品を世に出す糸口すらつかめぬ、いや、その作品の存在の有無すら感知できない焦燥に焙り立てられていたのであろう。

 莟自体の惑いの年は、私にとって美しくなかったが、後年顧みて、やはりその時期は自分の青春のコア核であったとおもいあたる。

 人生第一期は未来の胎動と、自分の中に潜む可能性の陣痛に悶えていたのである。

 その意味で、三月は社会への門口にたたずむ若者たちの陣痛の時期でもある。未来の胎動と、可能性の陣痛のない青春はない。つまり、三月は季節の青春期でもある。老若いずれにしても、この季節、青春を感覚する。そんな感覚が消えた者にとっては辛い季節であるかもしれない。

 その辛さすら感じなくなった者にとっては、三月のあらゆる可能性を含む莟の季節は、風化した忘却の時期でもある。季節感が風化した人生は、あるいは悟りの境地かもしれない。

惑うても天に向かって立つ莟
顧みて莟の時期(ころ)の風痛し

「梅家族」梅研究会発行より転載

2010年03月11日 »
コンテンツ配信