2010年01月18日
冬麗の凪の夕べの毬遊び
★ 。・。・゜♪゜・。・。★ 遊行俳句で交心 ★ 。・。・゜♪゜・。・。★

★ 遊行俳句で交心10z011701
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冬麗の凪の夕べの毬遊び
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今日は、友人のところへ遊びに行って、ついさっき、帰ってきたところです。
交心遅れたことご寛容くださいね。
> 君待ちし人が我ならうれしかれあることのなき夢のまた夢 遊呼
遊呼さん、今日も交心ありがとう。
今日は一日青空でしたよ。
関東の空も青かったでしょうか・・・
一昨日は、日食の瞬間を見たような、見なかったような・・・。
想い出して、夕陽を見た時、下の欠けたところを見かけたのですけれど、カメラを取りに行ったのがわるかった。戻った時は、向こうの家の屋根に隠れてしまっていたのです。カメラに撮るという習性は、よくないですね。優游遊泳、裸の心で自然に向き合うのがいちばんいいのです。なのにカメラの習性が身に沁みてしまったようです。
向きあう心に、物を介すると、心は裸であることを忘れてしまうんですね。
フィルターを心と勘違いしてしまいます。
一喜して三憂ありや冬の空 仁
何ごとも、同じようなものですね。
俳句も、形式がフィルターになると、そのまんまの心が、修辞になってしまったり、作りものになったりします。その技巧を文芸と称する人もいるでしょうし、デフォルメしなければ現代の複雑な真実は表現できないという人もいます。それぞれの持ち分があっていいのですけれど・・・
君を待つ心を夢という勿れ一つひとつが愛のはじまり 仁
愛もまた、同じですね。
愛は、様々なフィルターを通して見られているし、飾られたり、歪められたりもして、それはそれは人それぞれの現れ方をするし、理解のされ方をしていきます。一人の中でも、出会いごとに変わっていく愛があります。愛は自由なんです。愛は変幻自在なんです。
愛は命の燃焼であり、愛は命の受容だから、無為自然なんですね。
無為自然にいたる愛を、極北の愛と呼ぶんですよ。
良寛さんと貞心尼さんの愛は、極北の愛の道標です。
北極星のように輝いています。
オリオンの昇りそむるを共時せん 仁
真似良寛の最大の難関は、やっぱり、無為自然を生きることでしょうね。
平穏平常の暮らしの中で、無為自然というのは、千分の一くらいしかできないでしょう。
無為自然を生きるということは、無一物を生きるということなんです。
良寛さんは、90パーセント無一物を生きたのではないでしょうか。だから90パーセントの極北の愛を生きることができた。
凡愚仁は、0.1パーセントの無一物ですから、0.1パーセントの極北の愛を生きることができるでしょう。それでも、すばらしいことです。
まず、0.1パーセントの極北の恋が成就しますようにと念じているんですよ。
念じる心には、せめて50パーセントの極北の愛の具体的なイメージが創りだされ、そのはじまりの交心がないと、実現不能になるんです。
0.1パーセントは、誰にでもできるから、遊呼さん、はじめましょうね。
遊呼さんは遊呼さんのイメージを創りだしていって下さい。
老仁は老仁のイメージを創りだしていきます。
0.1パーセントを10回交心しても、01パーセントになるんです。
100回交心すれば、10パーセント極北の愛へ近づきます。500回交心すれば、50パーセント極北の愛へのアプローチがなったことになるでしょう。
それは、すごいことなんですよ。
とおをかぞえてまた一へ、なんです。
それが、はじまりですね。
つきて見よ ひふみよいむな やここのとを とをとおさめて またはじまるを ★ 良寛貞心尼相聞歌0201
楽しくなりますね
遊呼さんも、楽しくなりますか・・・?
冬麗の凪の夕べの毬遊び 仁
そうなんです、まずは童心に戻って、毬つき遊びができるようにならなければね・・・
遊呼さんは、毬つき遊び、お得意のようですね。
★ 。・。・゜♪゜・。・。★ そのまんま575で交心 ★ 。・。・゜♪゜・。・。★
★★★ 『 今日のそのまんま575で交心 10年01月18日 一喜して三憂ありや冬の空 』 へどうぞ!!! ★★★
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現実感の薄い、なにか抽象的な言葉で難しい印象が残念ですね。
ジン様の経験不足から来ているような気がします。
ある作家の方が10人10色なんて、告白されていましたが体感を得たリアルな言葉。
ちょっと病的とは言いすぎですが、殿方は羨む方がいらっしゃるでしょうね。
S.Himeさん、交心ありがとうございます。
ええ、とっても抽象的で、難解な言葉遊びの世界なんですよ。
現実性を必要としない遊行時空のひとり遊びなんです。
ごめんなさいね。
遊行時空へ遊んでみようと思わなければ、絵空事です。
遊行時空へ遊んでみようと思えば、遊行時空のはじまりです。
凡愚仁は、ほとんど現実を渡り歩いていないので、ご指摘の通り、「経験不足」なんですよ。
その「経験不足」人間も、また、自分なりに、自分の世界を創りだし、自分の世界を遊ぶことができるんだ、という小さな人間の小さな世界の自足した遊びの発見なんです。
現実世界を夢も冒険も生々しく体験し、ドラマを演出していける人たちは、そんな世界を楽しめばいい。歴史は生々しい権力闘争の権謀術数の演出される反復でした。そして少数の権力者の欲望充足のために戦争が展開しつづけているんです。それが現実だという人たちがゐます。
老仁は、そんな現実を脱落してきました。
そんな現実を経験しようとは思いもしませんでした。なぜなら、無能無才の落ち零れだからです。
そんな落ち零れにも、命はちゃんと働いてくれて、三度のご飯を美味しく食べることができるし、花を好きになることができるし、怪我しても命はちゃんと治癒してくれるんです。
命にありがとうです。
命にありがとうと歓ぶ幸せに、
戦争で英雄になることも、大恋愛でドラマを体験することも、芥川文学賞の小説を読むことも、必要じゃありません。そんな大きな世界を体験してきた人にも、鄙で道草して遊んでいる愚仁にも、太陽の光は同じように降り注いでくれるんです。月明かりは私を包んで心を癒してくれるんです。
落ち零れ凡仁にも、自分に合った幸せな世界があるという発見は、嬉しかったんですよ。
何にもドラマがなくても、退屈もせず、活き活きと細胞が躍る喜びを、密かに楽しめるんです。
密かにひとり遊びを楽しんでいればいいのに、
BLOG世界に、しゃしゃり出て、一笑されてしまいますけれど・・・
ほとんどは、無視されて、通り過ぎるだけでしょうけれど・・・
でも、ときどき、こうして、立ち止まって、交心もらえると、それだけで、Happyです。
ありがとうございます。
寒の星こころはどこでも交差する 仁
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