2008年02月11日
旅行くやスリと銃声に肝冷やし
昼食後、旧市庁舎の天文時計の前で解散、自由散策です。私どもはしばらくこの場に立ち止まって、からくり時計のパフォーマンスを楽しむことにしました。
すると古い大きなこの建物の戸が開いて、中の礼拝堂で結婚式を挙げたカップルが出てきました。
待っていた友人らしき若人の群れから爆竹、紙吹雪の祝福、やがてカップルは新婚車に乗って広場を去りましたが、この間小柄の私に写せたものは人の頭ばかりでした。
上右の写真は、プラハ旧市街広場の中央に建てられているフスの像です。 宗教改革の先駆者ヤン・フスはチェコ人の誇り。この人が説教をしたというベツレヘム教会をめざして街の中を散策したのですが、お上りさんらしく土産物も買いながらでしたので、着いたときには夕闇がせまっていました。
ここでハプニングが。ホテルにもどるため地下鉄の駅を探して大通りを歩いていると、突然銃声らしき音がして、むこうから通行人がみな走ってきたのです。私たちもあわてて踵を返して戻りながら見ると、パトカーやら機動隊やらが大通りにバリケードを築き、そのうち救急車も到着したようでした。

言葉が出来ないので、何が起こったのかは、最後まで分からずじまいでしたが、ハプニングはそれだけではありませんでした。両手におみやげ袋をぶらさげて地下鉄に乗り込んだ私たち夫婦はいいカモだったのでしょう、降りるとポケットというポケットがみんな開けられていました。幸いとられたのはタクシー代程度の現金とお土産を買ったレシートだけでしたが、高い買い物をしてしまいました。
翌日の飛行機で帰国しました。あれから一年経ちますが、妙なことにあのプラハの喧噪が一番なつかしく思い出されるのは何故でしょうか。
2008年02月10日
君に背を押されて旅に出たるかな
<6日目> 3月24日土曜日、最終日の観光はプラハ城から。
プラハは「百塔の町」といわれ、中世そのままの町並みが多く残っています。プラハ城は、ヴルタヴァ川の西岸フラッチャニの上にそびえる歴代王の居城です。現在は大統領府となっています。
マチアス門。聖十字架礼拝堂。聖ヴィート教会。旧王宮。聖イジー教会。黄金小路。ダリボルカ(中世に牢獄として使用)。
プラハ城入口の衛兵は、左右に直立不動の姿勢で勤務していました。
プラハ城の衛兵は美形が多いと評判だそうです。現地日本人ガイドから、記念写真撮影に際しては、左右両方の衛兵への気配りをという助言がありました。
小雨もやいの空模様に、傘をさしたりたたんだりしながらの歩いて観光でした。雨でよかったのは、しっとり濡れた石畳みと、聖ヴィート大聖堂に人が少なかったことでした。

次にカレル橋の方に歩いていきました。カレル橋は、ヨーロッパに現存する最古の石橋だそうで、長さ516m、幅10m、ボヘミア王カレル1世(神聖ローマ帝国皇帝カレル4世)の命令により1357年着工とのこと。英語名:Charles Bridge。プラハは14世紀、神聖ローマ帝国の帝都になったとのことでした。
カレル橋の両袂には、古来の聖人の彫像がならんでいます。マラソン大会のためもあったのか、混雑の極みでした。田舎者の私に人混みは大の苦手なのですが、一期一会とばかり、ひとつひとつカメラに納めながら橋を渡っていきました。橋の上の彫像は、両側に15体ずつ、計30体ありました。

上の写真はチェスキークルムロフから流れてきたモルダウ(ヴァルタヴァ)の流れです。この川がやがてエルベ川となり、ドレスデンから北ドイツ平原を流れて北海に注ぐのだそうです
君に背を押されて旅に出たるかな
2008年02月09日
子供らはいずこも似たり雪遊び
チェスキークルムロフの醸造所あとのレストランで昼食をとってから、1時間ほどですがチェスキークルムロフ城の中を見学しました。

どんよりした鉛色の空にスキー場のような冷たい風が吹きわたっていました。それなのに、世界遺産とされているからでしょうか、こんな寒い季節でも、世界中から観光客が集まって来るのですね。しっかりと毛皮を着込んだ重装備の親子連れや、そんな薄着で寒くないの?と声をかけたくなるような金髪さん。年齢層も、様々で、英語やフランス語でダダをこねてる幼子もいました(当然!)。

石畳や古い城壁、教会、修道院など、ひとつひとつの記録は同伴者にまかせ、私の興味は観光客そのものに・・・

↑雪遊びをする子ら。いずこも似たりですね。
下の写真はモルダウ川(ヴルタヴァ川)の流れ、この水がプラハまで流れていき、さらに国境を越えてドイツではエルベ川となるのだそうです。このチェスキークルムロフ城をとりまいている川がはるかに北海まで流れていくのだときき、ふーむそれでヨーロッパ大陸なんだなあと、妙に納得したのでした。

3時頃には、また車上の人になり、プラハに着いたのは6時半ころ。すでに夜のとばりが降りはじめていました。
2008年02月09日
再会を光に約す旅の朝
<5日目> ウィーン郊外のホテルを朝8時半、朝日の光の中を出発、これからチェコにむかいます。オーストリアの農村はどこも絵になる美しさです。ひろい畑地の真ん中に、赤い屋根の家々が寄り添うようにかたまっていて、必ずどこかに教会の尖塔があるのがみられます。その優雅ともいえる風景はいつまで見ててもあきませんでした。

上の写真、シャッター押すのが遅れて半分しかとれていません。バスのスピードもかなりだったのです。この車窓からは、ときどき桜の様な花もみられましたが、山道に入るほどに雪道になり、だんだん不安な感じがしてきました。

国境はまったくの山林のなかでした。オーストリア側はノープロブレムで通過したのですが、チェコ側のゲートにくると、係員がバスに乗り込んできて、ひとりひとりパスポートをチェックしていきました。全員ではなかったけど、コピーをとられた人もいました。

雪の山の中でのせいもあって、不安感は高まるばかりでしたが、10分位で「通れ」といってくれたようです。ゲートを出るとチェコ共和国。バスは再び雪道を走り出しましたが、カーブ、カーブで、かなり大変なドライブでした。ブリューゲルの絵(雪中の狩人)のような山の中を走ること約1時間、やがて視界が開けて、お店らしきものも目に映るようになりました。

お昼頃には無事チェスキークルムロフに到着しました。
まずは昼食レストランに。そのレストランはむかしビール醸造所だったとか、「生ビールはチェコから生まれた。ボヘミアはヨーロッパ屈指のビール産地として知られてきた」という説明に、夫は勢いこんで黒ビールを注文しましたが、醤油豆みたいな匂いがするといっていました。もちろん泡だっていましたし、味わいもあって、麹の香りが好きな人ならノープロブレムでしょう。
2008年02月08日
ウィーンでシリウスに会いき旅の夜
<4日目> 3月22日、朝日がのぼると青空がみえてきましたが、風は身を切るように冷たいのでした。ここはウイーン郊外のグロースエンツァードルフ、農村型リゾートホテルとでもいうのでしょうか、田園地帯に広い敷地で立っている、こういったタイプのリゾートが、近年人気とか・・・
庭を散歩すると、どこかで見たことのあるような小鳥の餌台が何気なく立っていて、夫が感激していました。我が家にもぜひこういう物を立てたいといって、カメラに収めていました。
ここに2泊してウィーンの街を丸一日観光しました。
ホテルを出発して30分ほどでウィーン市内に、まずはハプスブルグ家夏の離宮シェーンブルン宮殿の見学です。宮殿は長大すぎて全景がカメラにおさまらず、内部は撮影禁止ということでした。ガイドさんの話によると、マリア・テレジアはピンクの壁をイエローに塗り替えたということでした。
庭園の向こうの小高い丘に建つグロリエットは時間の関係で遠望したのみ。部分的にはパンジーなどの植栽が始まっていましたが、まだシーズンには間があると言った感じでした。
つぎに訪れたベルベデーレの宮殿は、寒い風の吹く中でしたが広々としたバロック調(?)の庭園がみごとで、何枚も写真を撮りました。ベルベデーレ宮殿は、18世紀、オスマントルコ軍を破ったオイゲン公の夏の離宮として造られたとのことです。

ベルベデーレの上宮の絵画館にクリムトの作品があるのですが、ここは素通りでした(残念)。それで午後の自由散策の時には美術史博物館を訪れ、たっぷり絵画を鑑賞することにしました。
オペラ座の前の土産物店で小休。ここの日本人女性(長年ウイーンに住んでいる)の話だと、「20年前は零下10°C、20°Cの日もあったけれど、最近のウイーンは零下になることは余りない。温暖化が進んでいる」とのことでした。


昼食後、オペラ座の前で解散。私たち二人はモーツァルト像のあるブルク庭園を通り抜けて、美術史博物館へと歩いて行きました。季節が季節のせいか、館内はそれほど混んではおらず、ゆったりとした気持ちで展示物を見学することができました。特に、農民の生活や聖書に題材をとった数々のブリューゲルの作品は、圧巻でした。フェルメールもありました。近代の部屋を見ただけで、2時間も経ってしまいました。
外に出ると、もう日が傾いていました。美術史博物館は昔の王宮をそのまま使って博物館にしており、マリア・テレジアの銅像をはさんで真向かいの自然史博物館と形がそっくりでした。
時間がなくなったので、いそいで王宮前を通り抜けて工事中のシュテファン寺院の前を通り、ケルトナー通りをオペラ座の方へもどってきて、ぜんぶで3時間あまりでした。
5時45分にベネトンの前に再集合して、レストランへ。その後暗くなってからオペラ座へ。ジャンケンで割り当てた天井桟敷はどこもおんなじで、オーケストラボックスの真上、ステージは半分しか見えませんでした。
演目はベートーベンのオペラ「フィデリオ」でした。言葉が分からなし予習もしてなかったので内容は漠然としか分かりませんでしたが、まあ、雰囲気は味わえたし、はじめてとはこんなもんじゃないか、ということで、納得。高所恐怖症の夫は、身を乗り出したら怖い感じがしたとブログにかいていました。
帰り道、ウィーンの夜空でオリオン星座を見たときのなつかしさを、忘れられません。
ホテルに帰り着くと、部屋の中の朝、枕銭をお礼のメモと共に置いて観光に出かけたところにお返しの言葉とサインがあり、それだけで心温まった気がしました。
2008年02月07日
国境と決めて無ければただの道
ブダペストから3時間あまりで国境へ。といってもイメージしていた国境という感じがまるでなくて、ハイウェイのインターみたいでした。
私どものバスは、ノーチェックでした。ハンガリー側とスロヴァキア側の二つの検問所があるだけで、国境って、まさしく人間の作ったものなんだ、と思いました。鹿や鳥はハイウェイを通りませんものね。1番目の写真がハンガリー側の検問所、2番目がスロヴァキア側の検問所です。


さて、スロヴァキア共和国は、面積が北海道の約5分の3。人口は約538万人(2004年)。首都はブラチスラヴァ。言語はスロヴァキア語ということです。通貨は、スロヴァキア・コルナ(Sk)ですが、ユーロが使用できるということで、スロヴァキアに入国しても両替はしませんでした。
首都ブラスチラバに到着して、バスを降り、そこから歩いて旧市街にはいり、レストランで昼食ということでした。あちこちきょろきょろしながらも、各国から集まった観光客の人波を分けて、日本人の行列のシッポにくっついて歩いていたつもりが、気がつくと私は一人ぼっちになっていました!
あわてて今来た道を引き返しレストランを一軒一軒のぞいたけど、仲間が見つからず途方にくれてしまいました。(迷子になったかな?)でも少し歩くと、広場の向こう側に大きな日の丸の旗がはためいているのが目に入りました。そこが日本大使館でした。ここで、目当てのレストランが直ぐ近くのホテルの中だということが判り、一件落着。
ブラチスラヴァは、16~18世紀、ハンガリー帝国の首都として栄えたということですが、現在の街(旧市街)はかなり修復を受けていると思いました。それでなければ、こんなにきれいに暮らしていけるはずがありません。街全体が箱庭のようにきれいで、至る所にオブジェが立ち並び、しかも野外です。日本だったらすぐ汚れてしまうのに、・・・マンホールから頭をだしている男とか、物陰からカメラを向けている男のオブジェなんかもありました。
昼食後は、ドナウ川のほとりの丘の上に建っているブラチスラヴァ城の見学でした。

上の写真は、ブラスチラヴァ城からのドナウ川の眺めです。

街を歩いているときみつけました。リスト記念館とありましたが、ここも素通り。
可愛いみやげものもたくさんあり、3時間やそこらの観光では物足りなかったです。とにかく、この旅は通り過ぎるだけの旅だということがわかってきました。
夕方5時頃には、オーストリアに入っていました。ウィーン郊外のグロースエンツァードルフというところに宿泊しました。
2008年02月06日
一枚の絵に魅せられて訪ね来ぬ
いちまいの えにみせられて たずねきぬ
<3日目> 3月21日、ブダペストでの2度目の朝、晴れてたら散歩しようといっていました。旅先での早朝の散策は、とくに思い出に残ります。少し地理感覚もついたので、今朝は早く起きて、英雄広場の周辺まで歩いてみました。ホテルのすぐ隣にスズキの販売店がありました。あとでガイドさんにきくと、ハンガリー自身は自動車生産はしていないとのことですが。

英雄広場周辺を歩くと動物園やら温泉(?)やら、美術館やらいろいろ集まっていましたが、もちろん早朝なので、外から見るだけです。
西洋美術館ではちょうどゴッホ展が開かれていて、華やかな垂れ幕が飾られていました。

上の写真はドナウ川の西岸ブダの丘の「漁夫の砦」から見たペスト側の眺めの一部です。今日はこの川をさかのぼって道をたどり,スロヴァキアに入ります。
それからさらにオーストリア、そしてチェコの順に巡って行くわけですが、ちょうどアーモンドなどの花が咲いたところに寒波が襲来し冬が逆戻りしたとのこと、最高に寒かったです。

上の写真は我が家に飾ってある北野敏美さんの版画です。その暗さのなかに存在する細やかな優しさ、暖かさが好きでした。それで私はこの絵を見るたびに、そこに鉛筆で書き込まれている“Gyor”「ジェール」という街にいってみたいと思っていました。
手元の地図でハンガリーのブダペストからオーストリアへ行く途上にあることを確認して参加したツアーでしたが、 “Gyor”という街の名を標識にみただけで、バスは遙か郊外のハイウェイを走り抜けてしまいました。
2008年02月05日
石畳流血の思い限りなく
いしだたみ りゅうけつのおもい かぎりなく
<2日目> 3月20日、ブダペスト市内観光は英雄広場から。ハンガリー建国1000年を記念し1896年に建造されたブダペスト最大の広場です。昨年11月のスペイン・ポルトガルの旅行でも多くの広場を見てきましたが、ヨーロッパの都市広場を見ると、古代ギリシアのポリスに存在したアゴラ(広場。会議、裁判、市場が開かれた)を思い出します。都市の真ん中に広場をという発想は、少なくとも古代ギリシアまで遡ると思いますが、日本の都市にはなかった発想なので、都市広場を見ると、「あー、ヨーロッパに来たなあ」という感じがするのです。

聖イシュトヴァン大聖堂の前の広場です。この通りの向こうがドナウ川だということでした。
ハンガリー人(マジャール)は日本人と同じ人種的起源をもつといわれます。古代ローマのころは騎馬民族として東ヨーロッパを席巻していましたが、中世のころローマ教会の下にハンガリー王国を建国したそうです。
聖イシュトヴァンはその初代ハンガリー王です。ハンガリーにキリスト教を導入したこの王様を記念して築かれた聖イシュトヴァン大聖堂、ドームの高さ96mというそのファサードの彫刻の真下には、ラテン語の聖句がかざられていました。
「我は道なり真理なり命なり」


