2008年06月28日
俳句の里松山 16
城南高等学校の句碑
城南高等学校は、1891年松山夜学校として創立。
プロテスタント系高校で、初代校長作詞の賛美歌が
学校の中心的な讃美歌になっています。

山路越えて一人ゆけど主の手にすがれる身は安けし 西村 清雄
この歌は世界的に有名な賛美歌の一説で、63年間勤労青年教育のため献身した、
松山城南高校長であった,西村清雄が明治36年2月、松山城南高校が松山夜学校と
呼ばれていた頃、アメリカから来松された宣教師ジャンソン女史(松山夜学校創設者)
と共に、宇和島から布教からの帰路法華津峠で詠まれた者です。

れうらんのはなのはるひをふらせる 野村朱燐洞
花ざかりの春の明るさを詠んだ句で、大正4年、数え年23歳の時の句、

2008年06月27日
2008年05月29日
俳句の里松山 13
第52番札所太山寺の句碑

蒟蒻に つつじの名あれ 太山寺 子規
昭和25年ごろまであった太山寺名物の「コンニャク」田楽のことで、茶店で売っていたそうです。

道ゆづる 人を拝ミて 秋遍路 杏史
この句は、昭和38年の句、会誌「柿」が300号に達したのを記念して、
昭和47年7月に門下生一同が建立。

五十回忌柳壟
八九間 空へ雨ふる 柳かな 芭蕉
十月の 中の二日や 柳つか 芭門下老人竹翁寛保三年(1743)五十回忌に建てられ碑石には「五十回忌柳壟(つか)左のほうには
芭門下老人竹翁」と刻まれています。
碑陰に「寛保三亥年芭門下連中建之」とあります。
久万町四十四番札所太宝寺境内の「霜夜塚」と並んで南街道では、
最古の句碑であるといわれています。

2008年05月27日
俳句の里松山 12
石手寺の句碑
四国霊場51番札所石手寺の句碑巡りに行ってまいりました。

南無大師 石手の寺よ 稲の花 子規
この句は「散策集」にあり、明治28年9月20日の句。
昭和13年5月建立。子規句集「寒山落木」の自筆拡大。

鎌倉の むかしを今に 寺の鐘 伍健
川柳家前田伍健が、石手寺に参詣したおりに詠まれた句。

葉桜の 中の無数の 空さわぐ 梵
篠原梵を偲んで、昭和51年10月7日除幕された。

花はいさ 鐘つかれけり 石手寺 嘶風
この句は古希の記念に昭和50年4月13日に建立。

伊予の秋 石手の寺の香盤に 海の色して 立つ煙かな 晶子
夫鉄幹と昭和6年11月来松している。昭和50年11月吉日建立。

仕合せの 鐘のわたりて 去年今年 路庵
石手寺仁王門の西側に住み、石手俳句会の長老として人々に慕われた。
昭和5年彼の84歳を祝し建立された。

2008年05月06日
俳句の里松山 11
萬翠荘の句碑

大正11年(1922)旧松山藩主の子孫に当たる、久松定謨が別邸として建てた、
フランス風の建物。現在は愛媛県美術館別館として公開されています。
9月中旬まで改装中です。

松山や 筍のびし 垣の上 柳原極堂
松山版(ほととぎす)第7号(明治30年7月)所載の句で、30歳の時であります。
それには「筍」が「竹の子」となっています。

なつかしき 父の故郷 月もよし 高浜年尾
年尾は、明治33年父虚子、母いとの長男として生まれた。
本名年尾は、子規の命名によります。

秋晴れの 城山を見て まづ嬉し 今井つる女
高浜虚子の次兄の三女、父が早死にしたため、四歳の時、
長兄の養女となり、後今井五郎と結婚、今井姓となりました。

城山に 風薫りゆく 城下町
5月7日より、所用で10日ほど留守に致します。コメントなど失礼致しますが、
宜しくお願いいたします。
2008年04月30日
俳句の里松山 10
千秋寺の句碑

山本や 寺ハ黄檗 杉ハ秋 子規
絵をかきし 僧今あらず 寺の秋 子規
子規が、愛松、碌堂(極堂)、梅屋の3名の松風会会員と
御幸寺山の麓まで散策した時の句。

金色の 仏の世界 梅雨の燈も 村上杏史
杏史の傘寿を祝って、昭和61年5月25日お孫さんの手で除幕式があり、
俳人達大勢の祝福を受けました。
本名清、明治40年、温泉郡中島町生。

伊佐爾波の丘めぐる水にこだましてあかつきいで湯太鼓鳴りいづ
弘田(義定)
道後温泉三層の本館屋上に「振鷺閣」があり、そこで毎朝6時半に
開場を知らせる太鼓が鳴りひびく、そこで松山らしさを感じての歌。

千秋寺は,貞亨3年松山藩主松平定直により建立されました、
現在の本堂は、祥えあ60年に再建されました。
2008年04月28日
俳句の里松山 9
護国神社の句碑
明治32年招魂社として創建されました。
数度の戦役、事変などにおいて尊い犠牲となって殉ぜられた方々など、
49,000柱を奏斎しています。

ちはやふる護国の宮の裏山に若葉のはざま風ぞ吹きける

熱田津爾船乗世武登月待者潮毛加奈比沼今者許芸乞菜 (額田王)
「熱田津に船乗りせむと月待てば潮もかないぬ今は漕ぎ出でな」
斎明(女帝)は、朝鮮の百済をすくい新羅を討つため船を進める途中
661年1月14日道後温泉を仮の宮と定め、その後、近くの港(熱田津)から
九州に向って船出する時に,側にいた額田王が詠んだ歌。
女帝自身の歌との説もあるそうです。
こでまりの 花の向こうの 白さかな
2008年04月26日
俳句の里松山 8
八幡造りの社殿伊佐爾波神社
135段の石段を登ると社殿がそびえ立っています。
社殿は、1667年第3代松山藩主松平定長によって作られ、
京都の石清水八幡.大分の宇佐八幡と並ぶ、
荘重な八幡造りの社殿を完成しました。


伊佐爾波の宮に向いて天伝ふ朝日に浮かぶ瀬戸の島々

伊狭庭の 湯はしもさはに 梅咲けり (加倉井)秋を
句中の「伊狭庭の湯はしもさはに」の語句は、万葉集の巻三の山部赤人の
「伊予の温泉に至りて作る歌一首」の語句を大胆に取り込んでいます。
この句は、昭和51年(1976)春松山に来た時の句。

伊佐爾波の 宮に優しき 椿咲く
2008年04月25日
俳句の里松山 7
道後公園
明治時代以来からの長い歴史を有する県立都市公園であり、
中世の時代伊予国の守護であった河野氏が本拠地としていた
湯築城跡でもあります。

温泉をむすぶ 誓いも同じ岩清水 (芭蕉)
明治26年頃、道後町が道後に遊園地作りました。
そのとき丁度、芭蕉の200回忌に当たったのでこの碑を建てたそうです。
この句は、芭蕉が元禄2年(16899下野国那須温泉で詠んだものです。

寝ころんで 蝶泊まらせる 外湯かな (小林 一茶)
寛政7年(1795)俳人小林一茶は、その師二六庵竹阿の旅の跡を慕い、
松山の俳人栗田樗堂らを訪ねて松山に来ました。
その旅日記(寛政7年紀行)によれば、同年2月1日のところに
「道後温泉の辺りにて」と前書きしてこの句があります。

ふゆ枯れや 鏡にうつる 雲の影 (子規)
明治28年子規「雲百句」の一句で、子規が余戸の俳人
森円月(1870~1055)のために、「愚陀仏庵」で
花き与えた物で、子規の自筆を拡大。
半鐘と 並んで高き 冬木哉 (漱石)
明治29年1月3日午後子規庵で、鳴雪、鴎外、瓢亭、漱石、虚子、可全、
碧梧桐と主催(子規)の8人が会しての初句会での漱石の句です。

茜さす道後の山の句碑めぐり躑躅と共に見るぞ楽しき








